good morning

素材提供:NOION様


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「誰よりも、そばにいる」

(19)夢

 逢理はいつもと変わらぬ奏大の声を聞いて、心が柔らかくそして暖かくほぐれていくのがわかった。いままで何を突っ張っていたんだろう。求めれば、こんなにも簡単に応えてくれるのに。
「奏大が福島に行くこと、聞いたよ。サークルの女の子から」
『サークルの?』
 奏大の声は驚いていたが、すぐに思い当たったのだろう、ああ、と短く言った。
 その後、少し間があって、逢理は続けて尋ねるべきか、そのことに触れないでおくべきか迷った。道の真ん中で立ち止まっていた逢理は、踵を返し、家とは違う方向へと歩き出した。
「夏休みの間中いないっていうことは、夏祭りも行かないんだね」
 逢理は毎年地元で行われる夏祭りに、中学生くらいまで奏大と一緒に参加していたことを思い出していた。高校生になってからは、別々に参加し、会場でばったり会ったりしていた。
 いつも、探していた。人ごみの中、姿を目で追っていた。
 それはいつからだろう。もう、ずっと昔からのような気がする。
 感情に明確な区切りはなかった。最初は確かに、兄と妹だった。お兄ちゃんの代わりに、奏大になついて後を追いかけた。でもいつからか、彼が兄ではないことを感じ、次第に素直になれなくなった。兄と妹ではない。じゃあ、友達なんだろうか。それとも違う気がした。逢理はどういう風に奏大に接していいのかわからぬまま、そして自分の感情に向き合おうとしないまま、こうしてここにいるのだ。
『夏祭りには行けないなあ』
 奏大がぽつりと言った。
 どうして、福島に行くの? あの子とは付き合ってるの? 逢理は心の中で尋ねてみた。
「そーか。じゃあ、気をつけて行ってきてね」
『うん。ありがとう』
 ぽつぽつと雨が降ってきた。
 逢理は立ち止まって見上げた。空ではなく、奏大の部屋を。
 奏大の家の前まできた逢理は、奏大の部屋の明りが消えているのを見て、彼がどこにいるのかなと思い巡らした。誰かと一緒にいるのだろうか。それなら、早く電話を切ってあげるべきだ。
「おやすみ」
 逢理はやはり、聞きたいこと、言いたいことを口に出せぬまま、電話を切ろうとした。
 奏大を好きだという気持ちには、なんとなく気がついた。少しだけ、素直になれそうな気もした。でも、奏大との間にある距離は大きいなと感じた。いつもそばにいたのに、その距離はどんどん開いていたんだなと思い知った。
『うん……』
 奏大が小さく応えた。
 雨が激しくなり、アスファルトや屋根を打つ音が次第に大きくなってきた。急に稲光が辺りを照らし、続いて雷が響いた。
 逢理は思わず小さく悲鳴をあげた。
『逢?』
 逢理はびしょぬれになって、それでも、奏大の声が聞こえてくる携帯電話を守るように、持っていたハンカチでそれを覆いながら、耳に押し当てていた。
 雨の音だけが響くその場所で、不意にガラッという音がした。顔をあげると、奏大の部屋の窓が開いていた。
 携帯を耳にあて、呆然とした顔の奏大が、逢理を見つめていた。
 逢理は急に恥ずかしくなって、下を向き、
「雨が降ってきたし、帰るね」
と電話越しに告げた。
 奏大は携帯を閉じて、部屋の窓際から姿を消した。
 切れた携帯の虚しい電子音を聞かないように、逢理もすぐに携帯をたたんだ。そして、奏大の家の前から立ち去ろうとしたときだった。
 奏大が、玄関から飛び出してきた。Tシャツとジャージのパンツという姿は、多分パジャマ代わりなんだろう。大きな黒い傘をさして、スニーカーの踵を踏んだまま、逢理に駆け寄った。
「奏大……?」
 逢理は目の前で傘を差し掛けて立っている奏大を見つめて、少し驚いていた。
 どうして、そんなに怖い顔をしているんだろう。謝ったほうがいいのかな。
 何も言わない奏大を前にして、逢理はなんとなく想像していた。いつもの奏大なら、濡れた私の髪を撫でて、来てるならそう言えばいいのに、と呆れ顔で言うだろう。
 バカだなあ、びしょぬれになって、何やってんだよ、と。
 それなのに、奏大はまだ黙っていた。急いできたせいか、小さく肩を上下させて胸元が呼吸とともに動いているのがわかった。
 雨が激しく傘に当たり、バラバラという音が逢理を包んでいた。
「明日の朝、行くんだ」
 奏大はやっと口を開いた。
 逢理は頷いた。
 奏大は表情を硬くしたまま、
「行く前に逢えて、よかった」
と言った。
 可笑しいよ、と逢理は思った。家もこんなに近くて、大学も一緒で、いつだって逢えるはずなのに。よく姿を見かけていたはずなのに。奏大も、私のことを遠く感じてたのかな。
 そして、奏大は逢理から視線をはずすと、ごめんな、とつぶやいた。
 どうして謝るんだろう。どういう意味なんだろう。
 逢理は奏大の顔を見つめ、必死で考えた。でも全くその意味がわからなかった。
 奏大は言った。
「風邪ひくぞ。帰ろう、家まで送る」
 彼は逢理の髪の滴を見つめ、なぜか横を向いてしまった。

 逢理の家の前まで来て、二人は立ち止まった。
 二人の家の距離が短いせいだろうか。一言も言葉を交わさなかった。狭い傘の下、腕が触れ合わないように、ほんの少しの空間を保っていた。それがそのまま、無言の空間と同化していた。
「ありがとう」
 逢理は隣の奏大の顔を見上げることができずに言った。
「逢……」
 奏大に名を呼ばれたが、逢理は余計にうつむいた。
「どうしたんだよ、元気ないぞ」
 その声に、逢理は追い詰められているような気がした。
「なあ、逢?」
 奏大は逢理の顔を覗き込んだ。
 逢理は戸惑いながら、奏大の目を見た。優しく笑う、いつもの奏大だった。
 もう、“いつも”には戻れない逢理には、その笑顔が苦しかった。
「なんで、俺んちの前にいたの?」
 奏大には、素朴な疑問だったのかもしれないが、逢理には絶句してしまうほど馬鹿らしい質問だった。
 自然に足が向いちゃったからだよ。
「不思議? 驚いた?」
「ん? いやあ……」
 奏大は逆に質問されて、困ったように口ごもっていた。
「小さい頃を思い出したかな。よく会いにきてくれたなあって」
「そう……。そうなんだ」
 言葉は残酷だなと逢理は思った。聞かなければよかったとも思った。そして、その言葉という強い武器で、鈍い奏大の胸を一突きしてやることもできるのに、そうする勇気がなくてごくりと飲み込んだ。
「じゃあね」
 逢理は傘を飛び出し、自分の家の玄関前に立って奏大を見た。
「あ、逢、あのさ……」
 急に離れた逢理を追うように、奏大は彼女に近づき何か言おうとした。
 逢理は待っていた。
「電話……、また電話するよ」
 逢理は黙って頷いた。


 その夜、逢理は夢を見た。
 高校生の兄が、嬉しそうに荷造りしていた。
「どこかにいくの?」
「うん。スキーに行くんだ。逢理も連れていってやりたいんだけどなあ、ごめんね」
「逢理だけお留守番?」
「大丈夫だよ、父さんも母さんも逢理と一緒にいるよ」
「行きたいなあ。お兄ちゃんと一緒に行きたい」
「いい子にして待っててくれたら、お土産買ってくるからさ」
「お土産なんていらないから」
 兄は逢理に背を向け、家を出て行った。友達と楽しげに話しながら、兄は逢理を一度だけ振り返った。その時の笑顔が、静かに時を止めて色を失くしていった。
 目が覚めた逢理は、夢の中で兄にはもう顔がなかったことや、最後の笑顔は仏壇に飾られている遺影だったことを思い出していた。
 最後は突然やってくる。
 だから、毎朝出て行く父の後姿を見るときも、不安がよぎる。自転車で買い物に出かける母の後姿にも。それは逢理の心を支配していて、決して安堵を与えない。
 続くはずの未来。それはただの妄想なのかもしれない。
 それなのに、奏大との未来だけは限りなく安穏としたスタンスで続くのだろうと、逢理は漠然と信じていた。
 昨日までは。

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