good morning

素材提供:NOION様


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「誰よりも、そばにいる」

(20)林檎

 伯父の家に向かうバスの中で、奏大は目を閉じていた。どこの景色も似たようなもので、窓の外を眺める気にもなれず、ただバスの座席が硬くてすわり心地が悪く、何度も座りなおした。おかげで眠れない。
 終点までの間、振り切ろうとしても思い出してしまうのは、昨日の逢理とのやりとりだった。
 逢理からのメールに無邪気に喜んだ自分を、苦々しく思い出す。

 逢理にどうして、この福島行きの理由を説明できなかったんだろう。もう決まった未来があることを、告げることに抵抗を感じた。その未来には、奏大の隣に逢理はいない。いつまでも、その未来が来なければいいと思っていたからだろうか。
 奏大は逢理に対して、どういう態度をとったらいいのか、わからなくなっていた。本当はあんな男、確か柴崎とか言った、あんなやつなんか、逢理の傍に寄せ付けたくない。俺が守ってやる。逢理を守るのは俺の役目なんだ。でも、逢理が望んでいるようにしてやりたい。あの男のことが好きなのなら、俺には出る幕はない。
 それなのに、自分を抑えられなくて、逢理にまた電話すると言った。消えていこうとする繋がりを、必死で食い止めるために。電話でもいいから、繋がっていたくて。
 情けなかった。
 俺の立場は見守るというものだと、わかっていたはずなのに。


 伯父の家に着くと、伯父の家族から歓迎を受けた。伯父夫婦と高校生の娘、そして祖父母がいた。
「奏大くん、久しぶりー」
 そういって飛びついてきたのは、もう17歳だという、いとこの依久美(いくみ)だった。奏大は面食らって、よろけたが、昔からこの子はこういうフランクな性格をしていたので、すぐに慣れることができた。
「奏大くん何歳になったの? 大学3年? えー、もう大人ーっ」
 昔、この子にラジオというあだ名を陰でつけたことがある。相手をしなくても一人でしゃべっているからだ。
「そうだよ、酒も飲めるしね」
 奏大が言うと、伯父が嬉しそうに、
「いいねえ、今夜は宴会といこう」
と笑った。
「いいねえ、私も飲んでいい?」
 依久美がおどけて間に入った。当然、奏大からも父親からも許可は降りない。

 奏大はこの家族たちと一ヶ月以上を共に暮らすことになる。明るい家族だし、昔はよく遊びに来た場所だったので、奏大には何の不満もなかった。ただ一つ、あてがわれた部屋に問題があった。
 それは依久美の部屋だった。無論、依久美と一緒に過ごせというのではなく、彼女は祖母の部屋に移動したのだが、いとことはいえ女性の部屋を借りるのは気を遣う。
「奏大くーん」
 依久美の声が聞こえて、入浴中の奏大はドキリとした。まさか、いきなりドアを開けたりしないだろうな、と思いながらも、念のためドアに背を向けて腰にタオルを巻き、椅子に座ってじっとしていた。
「お風呂どおー?」
 ガチャッという音と同時に、依久美の声がはっきりと風呂の中に響いた。
「わああ!」
 奏大は声をあげて硬直した。
「な、な、なんで開けるんだよ!」
「へえ。奏大くん、すっごいいい体してるなー」
「えええ??」
 すると、伯母がやってきて、依久美を無言で連れ去って行った。
 開け放たれた風呂場のドアを、奏大は恐る恐る手を伸ばして閉めた。

 依久美の奇襲攻撃はそれだけにとどまらず、部屋にもノックなどせずに入って来た。元は彼女の部屋なので、それはあまり文句はいえなかったが、せめて開けるときには声をかけて欲しいと懇願した。
「いいじゃない。裸でプールに入った仲なんだからー」
 依久美は一体何歳の頃の話をしているのか、奏大にはそんな記憶は全くなかった。

 ようやく一日が終わろうとしていた。
 福島に来て、すぐに始まったあわただしい生活に、奏大はとても感謝した。依久美のことは要注意だが、伯父は晩酌に付き合える彼をとても気に入ってくれたし、伯母はいつも奏大が困らないように気配りしてくれた。
 飲みながら、伯父は言った。
「明日から、頑張ってくれよ。期待してるからな」
「うん。でも、俺にできるのかなあ」
 奏大は謙遜半分、本音半分で首をひねった。
「大丈夫。おまえならできるよ」
 伯父はそして冗談まじりに言った。
「夏休みだけといわず、大学を辞めて、本格的に就職してくれてもいいぞ」
「そんなあ。あと一年ちょっとだから、卒業させてくださいよ」
 奏大は笑っていたが、伯父は結構本気だった。
「いやいや、いまどき大学なんてみんな出てるし、学歴社会でもあるまい。大学なんて時間の無駄だと私は思うなあ」
「冗談キツイなー」
「人生の問題はだ、いい会社に入ること、かわいい嫁さんをもらうこと、それだけだ。おまえの場合、就職は安泰だろう。それに嫁なら、ほれ、うちの依久美をやるから」
「ええっ!」
 奏大は飲んでいた日本酒を吐き出しそうになった。
「マジで?」
 ウソだろ? と奏大は尋ねたのだが、
「そう、マジだよ」
と、伯父は笑っていた。


 夜寝る前に、依久美の部屋の窓際に立つと、携帯の電波のマークが三本立っていた。
 昨日の今日で、電話をしていいものか、奏大は迷っていた。それで、逢理にメールしようとしたら、ちょうどメールがやってきた。
<お疲れさまでーす。今日、休みだから家でぼーっとしてたら、サークルの高科さんから電話があって、付き合ってほしいって告られましたー。びっくりですー。でも私には赤沢先輩がいるのでって、丁寧にお断りしましたー>
「ちょ、ちょっと待て!」
 奏大は思わず脇坂杏子のメールに突っ込みを入れた。
 そして、すぐに返信した。
<あのさ、俺は君と付き合ってるっていう自覚が無いんだけど?>
 ため息をついたのもつかの間、また別のメールが届いた。
 差出人は、逢理だった。

<眠れないから、電話してもいいかなあ>
 奏大はそのメールを見るや否や、すぐに逢理に電話をかけていた。
『ごめんね、明日早いんでしょ?』
 奏大はそんなことないと必死で説明した。家の近くに会社があるんだ、5分で着くんだ、8時半まで寝てたって大丈夫なんだ。それに、俺も眠れなかったし。
 奏大の言葉に安心したのか、逢理は今日あった出来事を話し、そっちはどうなの、と聞いてきた。
「うん。一つだけいいことがあったかな」
 無意識に奏大はそう答えていた。
『何?』
「逢の声が聞けた」
 本音をつい漏らしてしまって、奏大は慌てて次の話題を探した。
 逢理はしばらくの沈黙の後、
『どうして、福島でバイトするの?』
と尋ねてきた。
 その問いに答えることが、奏大にはとても辛かった。
「ごめんな、何も言わないで」
『そうだよ、サークルの子には言えて、私には言ってくれなかった』
「っていうか、あいつらはどうでもいいから、言えるんであって、逢は、逢は……」
『私は、何?』
 奏大は言葉が出てこなかった。
 守り続けるべき人? でも奏大は近い将来、その義務を放棄することになるのだ。

「逢は、俺なんかに興味ないだろうと思ったし」
 奏大の声が少し震えた。
「ほら、柴崎くんが夏休み中いないんじゃ、逢も悲しいだろうけどさ、俺なんか、ただの近所のオニイチャンだし、一ヶ月くらいいなくったって、どうってことないだろ?」
 なんだかかっこ悪いこと言ってるなあと、苦笑が漏れた。
「気にもならないだろうと思ってさ。へんに説明するのもどうかなと」
 逢理は黙っていた。
 奏大も、もうそれ以上言葉が続かなかった。
「ごめん、もう、寝るわ」
 奏大は沈黙に耐えられず、そう言った。
『わかった。おやすみ』
「うん、おやすみ」
 奏大はぎゅっと目を瞑って、携帯を持った右手をだらりと下へ下ろした。
 しばらくして目を開けると、窓の外の暗い空間に、吸い込まれていくような気がして、ゆっくりと窓から離れた。すると、背中が何かに当たり、驚いて振り返った。
「依、依久美ー!!」
 そこには、パジャマ姿の依久美が、枕を抱いて立っていた。
「一緒に寝ようと思って」
 依久美は平然とした顔でそう言った。
「ばか、何言ってんだよっ!!」
「いいこと、教えてあげるからさー」
「いいこと?」
 思わず奏大は依久美の話に乗りかけたが、
「いやいや、いいことも何もない。早くばあちゃんのとこへ行け」
と、彼女の体を180度回転させ、部屋のドアに向かって、背中を押した。
「林檎だよ」
「え?」
 依久美は顔だけ振り返って、言った。
「イブは林檎を食べた。でもアダムはまだ、食べてない」
「なんだそれ」
 奏大はぽかんとした顔で彼女を見つめた。
「イブはきっとアダムに林檎を食べさせる。知識の果実は、食べた方が幸せか、食べない方が幸せか、どっちだと思う?」
「なんだ、聖書か?」
 奏大はいぶかしげに依久美を見た。
「わかんないかなー、女心」
 依久美は知った風に言って、笑った。
 彼女はなかなか素直には出て行かなかったが、奏大は無理やりドアの外に追い出した。鍵がないのが残念だった。またいつ入ってくるかと思うと、なかなか安心して眠れない。
 それでも、布団に入ると疲れのせいでうとうとした。
 そして、最後に依久美が言った言葉が、呪文のように奏大の耳について離れなかった。

 知識の果実の林檎を食べたイブ。いろんなことを知ってしまったイブ。そして、まだ林檎を食べていないアダム。何も知らないアダム。
 どちらが幸せなんだろう。
 そして、俺は、アダムなのか?

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