この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています
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| 「五度目の正直」 (3)三度目 お見合いがあったのは、夏の初めのころだった。 彼女に再び逢ったのはまだ、セミも鳴かない時期だった。 今、こうして真夏になり、汗だくになって、バスから見る街は白くぼやけていた。あの、僕には不釣合いな美しい人が、髪を上げ、浴衣を着ている姿を想像する。 優しい香りがして、僕は多分何も声をかけることができないだろう。 彼女の名前は知っている。でも、それだけだ。 お見合いは一方が拒否すれば、それ以上しつこくつきまとうわけにはいかない。もう二度と逢うことはないんだ。 そして、もちろんのことだが、会社の顧客名簿を盗み見するわけにもいかない。見れる立場だから、余計にできない。 松戸詩鶴さん。 あなたに逢いたい。この気持ちが落ち着くのは、一体いつなんだ。 バスは高校の前で止まり、下校の生徒たちで満員状態になった。 今日は、僕の会社の化粧品を取り扱うことが決まった新しい店舗に、挨拶を兼ねてサンプルを持っていく。普通はロジスティクス(物流部門)に任せればいいのだが、今回は二時間前に電話があり、すぐ持ってきてほしいと言われた。営業担当者も出払っていたので、仕方なく、僕が出向くことになった。 冷房の効いた部屋から、こうして外に出ると、思考回路が鈍くなってくる。 暑さの中で、空白の時間を与えられて、僕は彼女のことばかりを考えている。 重いカバンで、手が痺れていたが、それを足元に置くわけにはいかない。ワレモノだし、誰かに蹴られては大変だからだ。 僕は右手でつり革を持ち、左手でカバンを持っていたが、ちょうど痛みもピークだったので、手を入れ替えようとつり革を離した時だった。 バスが急停車した。 僕はつんのめり、前の乗客の体に、みごとにダイビングした。 最悪だった。 左手のカバンが飛んだ。 バスの床に、無数に散らばる、小さな口紅や化粧水の小瓶。 カバンの中のダンボール箱の蓋が甘かった。出発前に数量を確認した時、しっかりと閉めなかったのだろう。乗客たちは足元を転がるそれらを、眺め、足で蹴り、拾い上げた。 そして、不思議そうにそのサンプルを見ていた。 「あの、僕が落としました。すみませんが、返してもらえますか」 僕は困ってというよりは、むしろ、気力が萎えて大きな声も出せずにいた。 「すみません。あの、それは、僕が……」 何人かが知らん顔をして、ポケットにしまおうとしていた。 僕は、情けなくなって、嫌になって、軽いカバンを抱えて、うつむいた。バスが停留所で止まったので、僕は、人を掻き分けて、バスを降りた。 知らねーよ。 僕はバス停で、思わずカバンを地面に叩きつけていた。 元はといえば、夢想していた僕が悪い。仕事中なのに、彼女のことが頭から離れずに。 会社に帰ろう。 もう一度、新しいサンプルを200ずつ揃えなければ客先へは行けない。 僕が落としたカバンを拾い上げたとき、誰かが背中を触った。 びっくりして、振り返ると、そこには彼女が立っていた。 「ま、……」 松戸さんといいかけて、その名を呼ぶことにためらいを感じて唇を閉じた。 「大丈夫ですか?」 彼女は数個のサンプルを僕に手渡し、気の毒そうな表情を浮かべて、僕を、僕の目をしっかりと見ていた。 彼女は、僕のことを、覚えてるの? 僕は何も言えずに、彼女からサンプルを受け取った。受け取った手は、彼女の白く小さな手に触れ、そのまま、動きを止めていた。 ありがとうをいわなくちゃ、そう思いながらも、僕は返してもらったサンプルを凝視して、彼女の顔を見つめ返す勇気が出なかった。 「大変ですね」 「……いえ」 僕は、さっきカバンを地面に叩き付けた姿を見られているのにも関わらず、急におとなしくなってしまった。 「あの、こんなときに失礼かなと思うんですけど」 彼女が言った。 僕は、ようやく顔を上げ、うつろな目で彼女を見た。 汗が頬を伝い、髪が濡れて頬に張り付いていた。手の甲で汗を拭う、そんな姿でさえ、色気を漂わせていて、僕はまた少し視線を移ろわせた。 透き通ったピンクの口紅、あれは、きっとウチの高級ブランドの……。 そんなことを思っていた。彼女はその唇をそっと開いて、言った。 「三川さんですよね」 僕は信じられないことに、彼女と真向かいに座り、冷房の効いた涼しい店でハーブティを飲んでいた。 必然的に、お見合いの席を思い出す。 「あのときは失礼しました」 なぜか、僕が先に謝った。 彼女は笑った。 そのとき、初めて見た。彼女の優しい笑顔を。 「私たち、三度目ですね」 もう、それで満足だった。 彼女が僕のことを思い出してくれて、そして、笑ってくれた。 それだけで、十分だったはずなんだ。 約束を取り付けることも、僕にはできなかったから。 4 に続く |
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