この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています
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| 「五度目の正直」 (9)サヨナラ 会社で倒れて家まで運ばれてから二日間、僕は仕事を休んで寝ていた。 市販の解熱剤で熱は下がった。熱の酷い夏風邪のようだった。結局医者には行かず、部屋でじっとしていた。 それが心地よかったんだ。 精一杯看病してくれる詩鶴さんを見ているだけで、僕は幸せを感じた。 一緒にコンビニにも行けなくて、ろくな食事も食べさせてやれなくて、ほとんど部屋に閉じこもったままなのに、彼女は文句一つ言わずに僕のそばにいてくれた。 ありがとうと、僕は何度となく礼を言った。 そのたびに、笑顔で「いいよー」と言う詩鶴さんは、まるで、前からずっとそうだったかのように、僕の部屋に馴染んでいた。 だから、僕は彼女がいなくなるなんて、考えもしなかった。 木曜日、僕はようやく出社した。 同僚や上司たちに迷惑をかけたことを詫び、通常の業務をなんとかこなすことができた。 いつもに比べ、帰宅時間を早めた。6時ごろ、僕は会社を出た。会社のある駅のそばのショッピングセンターまで来たとき、ふと、彼女に何か買って帰ろうと思って、電話した。 彼女は元気な声で電話に出て、 『何もいらない。早く帰ってきて。御飯食べに行こうよ』 と言った。 僕は彼女の言葉をそのまま受け取り、何も買わずに電車に乗ろうとした。2人で食事に出かけるのは、祭りの日の帰りにファミレスに寄った程度だった。 おいしい店に連れて行って、今日までのお礼をしなくちゃと、僕は思い、そこでふと思い出した。 詩鶴さんはずっと部屋では僕の服を着ていて、彼女の服は祭りの日に着ていた1着だけだということを。 僕は迷った挙句、もういちどショッピングセンターに戻り、婦人服のショップを探してめぼしいものがないか、見て回った。 外食するから、というよりは、彼女に着てもらいたいから、という理由で、僕は白のワンピースを手に取った。 「こちらのフレンチスリーブは人気なんですよ。お色も白は定番ですしー」 店員が金色に近い髪を指でかきあげながら、接客してくれた。 裾が長く、広がり、黒と灰色の模様が入っていた。上半身には絹のように輝く白い糸で刺繍が施されていた。そのワンピースは、天空に溢れる真っ白の羽が、街に落ちてきているような、そんなイメージだった。 幾分少女趣味かなと思い、店員に尋ねようかとも思ったが、やめた。店員の目を見ていると彼女とかけ離れた人に聞いても無駄かもしれないと思った。 「サイズなんだけど……よくわからなくて」 「そうですか? こちら、SとMのツーサイズしかないんですよ」 Sかな。彼女の細さからすると多分Sだろうと思ったのだが、服のサイズはSでもいろいろある。この服は若干小さいような気がした。 「綿で伸びない生地ですしー」 それは見ればわかるよ、とつっこみたい気持ちを抑えて、 「160センチは無いと思うんだ」 と、言った。 「Sはかなり小さい方ですから、大抵Mを買われますけど」 店員の言葉はあまり意味を成さなかった。僕が決めなければならない。Sをプレゼントして、万一入らなかったら彼女に失礼だから、Mを買って帰る方がいいよな。 「とりあえず、Mをもらうよ。もしサイズが合わなかったら後で交換しに来ます。何時まで開いてるの?」 僕は詩鶴さんに似合うといいなあ、喜んでくれるといいなあと不安に思いながら、紙袋を抱えて帰宅した。 その瞬間、彼女の表情には困惑と驚嘆が入り混じっていた。 「あ、ありがとう」 詩鶴さんは、恐る恐る服を取り出して、体に合わせた。 「きれい……私に似合うかな?」 眩しいほどの白と、対照的にシックな黒とグレーの模様のスカート部分。少女趣味どころか、彼女の顔に合わせてみると、とても大人っぽい。 僕は想像以上に彼女に似合っていて、自分勝手に感動していた。 「着てみる」 詩鶴さんは服を持って、ベッドルームに入っていった。 しばらくして、彼女がワンピースを着て、出てきた。 僕は一瞬にして自分の選択ミスを思い知らされた。彼女の細い肩が襟元から覗いている。なにがフレンチスリーブだ。彼女にはメロンのように大きい。 「ごめん。大きすぎた。変えてくるよ」 僕は、すぐに彼女にその服を脱ぐように言った。 詩鶴さんは、僕の顔をじっと見て、それから、にっこりと笑った。 「変えなくていい。まだまだ私、成長するんだもん」 え? と僕は聞き返した。 「三川さんと一緒にいたら、私、幸せで、けっこー太りそうな気がする」 彼女は僕の視線から蝶のように飛び立った。 嬉しそうに、洗面にしかない小さな鏡で、服を見ようと背伸びしている彼女の姿を、僕は眼に映していた。 何も言えない僕は、彼女の背面に立ち、鏡越しにその顔を見つめた。 美しくてあどけない瞳が僕の存在に気付いて微笑む。僕は鏡から視線を落とし、すぐそばの細い体をこちらに向かせ、抱きしめた。 「三川さ……」 彼女を奪うのではなく、彼女を守るのでもなく、僕は永遠に一緒にいたいと思った。 ただ、そばにいてほしい。それだけでいい。 ぎこちなく始まったくちづけは、お互いがわざと知らないフリをしていた感情を、ゆっくりと目覚めさせた。 彼女を欲しいと思う気持ちにもう抑えがきかなくて、好きだとか、愛しいとか、そんな言葉が無数の蜂のように僕の胸を突き刺した。 僕はぶかぶかのワンピースごと彼女を抱きしめ、その体を抱きかかえて、寝室へと向かった。 まだ外の通りは車がひっきりなしに行き交い、人のざわめきも聞こえる。 ここだけが、切り取られた夜だった。 誰の侵入も許さない。僕と詩鶴さんと2人だけの。 僕を受け入れてくれた詩鶴さんは、ときおり泣きそうな顔で僕を見上げた。 何度も抱きしめた。そんな顔をされるたびに、僕はどうにかして、この気持ちで、彼女を世界で一番の幸せなひとにできないかと、願った。 僕は彼女の白い胸にキスをしながら、神に祈りを捧げた。 僕の腕にそっと顔を乗せる詩鶴さんは、乱れた髪もそのままにして、僕の喉のあたりに視線を移ろわせていた。 詩鶴さん、と僕は呼んだ。 彼女は遠い世界から戻ってきたように、はっとして僕を見た。 「何を考えてたの?」 僕は聞いてしまってから、後悔した。でも、不安で聞かずにはいられなかった。寂しそうで、僕のことはまるで蚊帳の外のような、そんな顔をしていたから。 2人でいるのに、僕という人間は、まるで存在していないかのようだった。 彼女はふっと息を漏らして、言った。 「なんでもない。ごめんね」 そんな答えは聞きたくなかった。 でも、彼女を責めるわけにも行かず、僕はそっと彼女の頭の下の腕を抜いて、起き上がった。 「シャワー浴びて、食事に行こう」 食事から帰ってきて、しばらくして、あまり言葉も交わさないまま、僕らはベッドに入った。 詩鶴さんはすぐに寝たようだった。いや、寝たふりだったのかもしれない。僕はそれを確認してはならないような気がして、黙って彼女の隣に体を横たえていた。 あまり眠れなかった。 翌日、金曜日。 今日の仕事を終えれば休みだ。そう思って少しだけ残業をして、終わりにしようと思った7時、僕の携帯にメールが届いた。 見れば、詩鶴さんからだった。 <いい出せなくてごめんね。今夜、自分の部屋に戻ります。あのまま放っておけないから> 僕は、そのメールを見て、びっくりして社の廊下を駆け出して、非常階段のある外に出た。 いそいで、電話すると、彼女が出た。 『部屋に稠一がいたら、出てってもらう』 「でも、一人で行くなんて無茶だろ? また暴力振るわれたらどうすんだよ」 『大丈夫。引っ越しするって言ったらきっと出て行くと思うし』 「まてよ、僕が一緒に行くから」 『三川さんには迷惑かけたくないの』 またそれか、と僕は頭に血が上った。 「なんでだよ、そんなこと言うなよ!」 詩鶴さんは少し黙ってから、静かな声で言った。 『ごめんなさい。もう決めたの。自分でなんとかする』 僕は二の句が継げず、息を止めたまま固まった。 『いままでお世話になりました。ありがとう』 「ま、待てって」 しかし、電話は数秒の沈黙の後、切れた。 再び掛け直しても、もう二度と繋がらなかった。 急に訪れた幸福は、潮が引くようにあっさりと僕から離れていった。 詩鶴さんの居た、ほんの小さな形跡が、僕の胸を締め付けて、さよならも言えなかった辛さがこみ上げてきた。 こんなんなら、最初から出逢わなければよかったのに。 どうして、僕は詩鶴さんと出逢ったんだ。 置き去りにされた、裏切りにあったかのような、そんな情けない感情さえ伴いながら、僕は日常を過ごさねばならなかった。 もうすぐ夏は終わるというのに。 10 に続く |
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