good morning

この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています


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「風と君とを抱きしめて」

(1)

ビルとビルの間を、風が吹きぬける。
小さな紙ヒコーキが、どこからともなく、ふんわりと飛んできて、歩道で信号待ちをしていた野上英(のがみあずさ)の肩に当たった。
誰かに肩を叩かれたのかと思い、英は振り返った。
美しい女性が恥ずかしそうに微笑む姿が見えた気がした。
しかし、そこには誰もいなかった。
 
小さな紙ヒコーキは、英に気付かれること無く、アスファルトの片隅に落下した。
 
 
英は電車を乗り継ぎ、駅からはタクシーを拾い、住宅街へと足を向けた。
実は彼としては少し迷ったのだが、やはり普段どおりの服装で、そこへ向かうことにした。
普通のジーパンに黒に近い地味なグレーのTシャツ。なんの飾り気も無い。
誰もが彼のことを、第一印象で、おとなしい大学生だと勘違いする。
おとなしくて、優しそうで、さわやかな、好青年だと。
しかし、彼は25歳である。
年相応の、そして職場での地位に相当する雰囲気を持ち合わせるべきであると誰かが言ったのだが、
彼の耳には届いていないようだった。
 
一軒の白い外壁の大きな家の前で英は立ち止まった。
淡いピンク色の花束を左手に提げて持ち、右手でインターホンを押した。
『はい。』
低い男の声が答えた。
「野上です。ご無沙汰しています。」
『ああ。』
インターホンの声は、低く、抑揚が無かった。
「四季(しき)さんは、その後、いかがですか…。何か情報はありましたか…。」
英は、小さなカメラのついた黒く四角いインターホンに話しかけた。
『何もわからんよ。』
「そうですか…。」
英は、傍の表札を改めて見つめた。竹内とある。
「近くの花屋で、四季さんが好きそうな花を見つけたので、よかったら、お部屋にでも飾ってもらえませんか。」
ピンクのバラを中心にした花の束を、カメラに映るように、胸の辺りまで持ち上げてみた。
『献花か。まるで死人扱いだな。』
「いえ、そんな…。」
言葉につまる英に、主人らしい男は冷たく最後の言葉を継いだ。
『さっさと帰ってくれ。』
プツと音を立てて、インターホンが切れる音がした。
しかし、英はその門の前からすぐには動けなかった。呆然と立ち尽くしていた。
英は、ゆっくりと花束を門の下に置いた。
竹内 四季さんへ。野上 英より。
花束には花屋のおばさんの書いた大人びた文字のカードが添えられていた。
英はようやく竹内の家の前から歩き出した。
もう既に、日は西へ傾いていた。
 
 
暗い緑色の沼を映したような、深遠とした目で、英を見つめる美しい人がいた。
「四季…。」
四季は語らず、泣きそうな微笑のまま、英にしがみついた。
英はしっかりと抱きとめ、大丈夫だよと何度も言い聞かせた。
四季はいつのまにか、英の腕の中に溶けて消えていた。
四季が消えた後、英の体は、氷を抱きしめたようにぐっしょりと濡れていた。
 
 
英はタクシーで眠ってしまい、駅に着いたことに気付かなかった。
運転手に起こされて急いでタクシーを降りた。
竹内四季の家から大通りまで歩いて、そこでタクシーを拾ったのが、5時ごろ。
時計を見ると5時20分。
ほんの20分という時間で眠りにつき、また同じ夢を見た。もう何度見たか知れない。
浅い眠りが、英の体をぐったりと疲れさせた。
日頃の激務がたたっている。思った以上に体は堪えているのだろう。
疲れた体を引きずって、しかし、すぐには駅の改札を通らずに、少し周りのショッピングセンター街に目をやった。
この辺りも立派なSCができたものだと、感心する。
英の社の人間が何人か働いているはずだ。少し覗いてみようか。そんな気になったときだった。
歩道の隅で誰か倒れているのが英の目に映った。
うつ伏せで、顔は良く見えないがあの小柄な体躯からすると、女性だろう。いや、少年か?
ボロボロの黒のジーパンに真っ赤なTシャツ。素足にスニーカー、赤茶色のカールした髪。
そして、コンビニのビニール袋を手に持ったまま、倒れて身動(みじろ)ぎ一つしない。
英はわざわざ駅から道路を横断して、歩道へ行き、そしてその倒れたまま動かない人の傍にしゃがみこんだ。
硬いアスファルトの上だった。もしや気を失っているのでは、と、英は肩をゆすってみた。
「きみ。ねえ、きみ、大丈夫?」
「ん?」
顔を上げたのは、まだ若い女性だった。
ただ振り返っただけのような表情の彼女は、英を驚かせた。
「きみ…。」
「あ、ごめんね。心配したのね? 倒れてるんじゃないかって。違うの違うの。」
英はしばらく、言葉が出て来なかった。
「ちょっと、アスファルトがね、話しかけてくるからしょうがなく、ね。」
「え?」
彼には相手の言葉がうまく聞き取れなかった。
「きみ、名前は?」
「あ、やだよ。警察とか連れて行くつもりじゃないの? 病院? マジでやめてよ。オカシイヒトじゃないんだから!」
「いや、そうじゃないんだけど。」
声が震えるほど動揺している自分に、英は焦りすら感じていた。
そんな英を尻目に、彼女は元気に立ち上がった。
コンビニの袋の中からアミノ酸飲料のペットボトルを取り出してキャップを開け、口をつけた。
「なに? なんでじっと見てるの?」
少年のような格好のこの女性は、英を見ながら、彼の絡みつく視線を不思議そうに受け止めた。
「僕の知っている人に似てたから。びっくりして…。」
英も立ち上がり、小柄な女性を見下ろして言った。
「沙智よ。サ・チ。それが私。あなたの知ってる人とは違うと思うけど?」
沙智と名乗った彼女は、英の反応を楽しげに見守っていた。
「うん…。何歳か訊いていい?」
「なに? なんかヘンな感じ〜。」
「いや、別に下心があって言ってるんじゃなくて…。僕の知り合いは今年26のはずだから…別人だとは分かってるんだけど…。」
「こう見えても私、ハタチよ。どうせ、15,6にしか見えないでしょう。そう言うお兄さんは、一体誰?」
「僕は…。」
そう英が言いかけたとき、英の携帯電話が単調な呼び出し音を響かせた。
英は沙智に軽く目で謝ってから電話に出た。
「いや、確かに今日はオフなんだけど…。仕事はまだ残ってるから…。」
歯切れの悪い断り方で、困った顔をする英を、沙智はじっと見ていた。
沙智はいきなり、英の持っていた携帯電話を取り上げると、通話を切った。
「あっ」
沙智は、驚く英に、にっこりと微笑むと、こう言った。
「バカね。これ、仕事用のケータイでしょ? オフの日は、こうするのよ。」
沙智は、英の携帯電話の電源を、ためらいもなく切って、英に返した。
英は返されたものを持ったまま、呆然と沙智の顔を見ていた。
沙智は、その行動には似合わない優しい瞳で、英に微笑み、そして近寄った。
「ね、おなかすかない?」
「あ、うん…。」
「いいでしょ? 一緒に何か食べよ。」
沙智は、まるで英の妹であるかのように、自然な笑みを湛えていた。
随分前からの知り合いで、それが当たり前であるかのような、愛らしい仕草で英を誘うのだ。
「仕事用の番号を教えてる女に、未練は無いでしょ?」
英は、どこまでも見通している沙智に、興味を抑え切れなかった。
彼女はバカではない。ましてや気がふれているわけでもない。
頭の回転は速そうだ。でもそれとは別の意味で、行動が読めない。
沙智はただ、カモを見つけて、たかろうとしているだけなんだろうか。
英は、たくさんの女性たちを見てきたが、沙智のことだけは推し量りかねた。
「お兄さんの自己紹介もまだだしね。」
「ああ、そうだったね。」
沙智はコンビニのビニール袋を開いて、ペットボトルを戻した。
その袋の中に、なぜか白い小さな紙ヒコーキが一つ、入っているのが透けて見えていた。
 
 
まるで少年のような、美しさを持つ女性。
それが沙智。
四季が消えて一年経った今日の日に、
四季とそっくりな顔の、この女性に逢うなんて。
これは、偶然なんだろうか。
何か意味があるのではないのか。
そう思いたかった英は、沙智から目を離すことができなかった。
別に自己紹介をするために、英が沙智に食事をおごってやる筋合いなどどこにも無い。
しかし。
たとえ、それが軽薄な出会いのように思えたとしても、
英には、沙智とこのまま別れてしまうことは、どうしてもできなかったのだ。

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