good morning

この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています


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「風と君とを抱きしめて」

(2)

その駅からさほど歩かない所にある大きなビルの地下に、
コンクリートを剥き出しにしたままの造りの多国籍料理店があった。
小さくひっそりと存在する入り口の木の扉には、店名すらかかっていない。
「この辺りじゃ、一番美味い店だよ。」
英はそう言って、扉を開け、沙智を中へと促した。
薄暗い店内には、ほのかなキャンドルの明かりがテーブルを飾り、静かな雰囲気だった。
当然、恋人同士らしい客層が殆どで、年齢層もやや高めだった。
沙智は、目を瞬かせ、雰囲気に圧倒されていた。
「こんな、高そうな店に、連れてきてどういうつもり?」
沙智は不満そうに英の顔を見上げた。
「別に。美味いからだよ。」
ウェイターとも顔見知りらしい英は、沙智の反抗も気にせずに、なにやら勝手に注文していた。
ふと英が沙智の顔を見た。
「何のむ?」
「缶チューハイ。」
沙智はそういいながら、ペットボトルのアミノ酸飲料をがぶ飲みしていた。
英は困った顔でウェイターの様子を伺った。
「あー、えっと…。」
「あります。缶から出してお持ちします。」
ウェイターも心得た顔つきで、にっこり微笑んだ。
彼が去った後、英は小さなテーブルで、沙智の顔をまじまじと見つめた。
「何よ。」
「ほんとに二十歳?」
「うん。」
英は小さくため息をついた。
「じゃ、学生?」
「違うよ。」
沙智は英の顔は見ず、テーブルの隅に置かれた、広告紙を一枚取り上げた。
「働いてるの?」
「まあね。」
英は沙智が何をするのか見ていた。沙智は紙を折り始めた。
「何の仕事してるの?」
「詩人よ。」
沙智は紙ヒコーキを折りあげると、店の奥に向かって、すいーっと飛ばした。
あっけにとられていた英は、その小さな飛行機が随分遠くまで飛んでいくのを黙って見ていた。
沙智は広告紙をもう一枚手に取った。
再び紙ヒコーキを折りはじめる沙智に、英は言葉を継げなくなっていた。
「詩人が私の本業。でも、バイトもしてるわ。」
2機目の紙ヒコーキは、奥のテーブルの客のひざの上に不時着した。客は当然驚いていた。
3枚目に手を伸ばす沙智に、英はついに、その広告紙の束を両手で覆い、首を横に振った。
「わかったよ。僕が悪かった。」
二人はそのまま店を出た。
 
もうすっかり暗くなってきた空にむかって、沙智は嬉しそうに伸びをした。
「そこの屋台のソバ屋さん、あそこがサイコーなの。」
沙智は、誰も客のいない屋台へと近づいた。
「こんばんは。『スペシャル』ちょうだい。」
沙智が笑って言うと、主人があいよ、と気の乗らない軽い返事をした。
沙智は屋台の傍に出されている丸い椅子に座っていた。
「僕も下さい。」
と言って、英も沙智の隣に座る。
「怒ってないの?」
英を見ていた沙智の口からは、意外にも彼の機嫌を伺うような言葉が出てきた。
「怒る?」
英はぷっと吹き出した。
「怒らせようとしたの?」
沙智はその問いには答えない。英は、思わず目を細めた。
四季の顔が、沙智の顔に重なる。
「お待ち。」
ドン、とどんぶりが置かれる音がして、英も沙智も我に返った。二人は、どのヘンがスペシャルだか分からない、月見ソバに向き直った。
沙智はどんぶりをかかえて、ふっとどこかへ行く。
英はどんぶりに口をつけながら、そんな沙智を目の端で追った。
沙智は、屋台から離れて、道路に背を向け、路肩の石に座って食べ始めた。
沙智の後ろを車がビュンビュン通り過ぎて行く。
「危ないなあ…。」
つぶやく英に、気のよさそうな屋台の主人が言った。
「いつもだよ、あの子。」
英と主人はお互いに苦笑を漏らした。
英は、ゆっくり立ち上がると、やはりどんぶりを持って、沙智の隣までやってきて、路肩の石に腰掛けた。
「美味いね。」
英は沙智に声をかけた。
「うん。」
沙智はそう言ったきり、黙って食べていた。しかし、それほど食がすすんでいるという感じでもなかった。
「何か考え事?」
英が聞くと、沙智は英を真直ぐに見つめて、言った。
「あなたこそ、何を考えてるの?」
そう言われて、英は少し戸惑った。
どう説明すればわかってもらえるだろうか。いや、分かってもらう必要があるんだろうか。
僕は、沙智に一体何を求めて、こうして一緒にいるんだろうか。
そこまで瞬時に思考が及んだとき、沙智が言った。
「あんなお店を知ってて、しかもカオでさ。きっとお金持ちなんでしょう。そういう環境の人なんでしょう?」
「いや、それほどでも…。たまに仕事で利用したりするだけで…。」
「女性とでしょう?」
「うん?」
英は聞こえない風で誤魔化そうとした。
「私にどうしてここまで付き合うのかな。さっきの時点で、ほら、さっき私が紙ヒコーキ飛ばしてた時点でさ、普通ならもう相手にしないはずなのよね。」
「ふうん。」
英は沙智の言葉を面白いと思った。
「君はそうやって、いつも、相手を篩(ふるい)にかけるのかい?」
「私が選んでるんじゃないよ。相手が逃げてくだけだよ。」
英はなんとなく、沙智のことが分かった気がした。
これだけの美人だ。ナンパな男に声をかけられることなんて、日常茶飯事なんだろう。
でも、まだ沙智の行動についてゆける男はいなかったということだ。
そう考えると、英は笑いがこみ上げてきた。
「僕は仕事柄、誰に対しても気長に付き合うほうだと思うよ。」
「そうなの? 何の仕事してるの?」
「人材派遣会社を作ってね。なんとか軌道に乗ったところかな。
 毎日いろんな人に会うよ。みんなちょっとずつ違ってておもしろい。」
「お兄さん、若そうに見えるけど、会社作っちゃったの?」
「そうだよ。君も登録してみる? いい仕事場を紹介するよ。」
そこまで言って、英ははたと気付いた。
「名前、まだ言ってなかったな。ごめんごめん。」
英はどんぶりを石の上に置くと、名刺を出して沙智に渡した。
しかし、彼は何を思ったか、彼女がまだ文字を見る前に、いそいでそれを回収した。
「だめだ、どうせ紙ヒコーキにして飛ばされちまうな。」
沙智は大笑いした。
「かもね。」
「かもね、じゃない。失くさないって約束してくれよ。」
沙智は、たかが名刺に真剣になる英の姿が不思議だった。
「いいよ。」
沙智のその答えに、英は安心して、もういちど名刺を差し出した。
彼女は白い紙片をじっくりと見据えた。
「とりし…。取締役?? なにこれ?? 株式会社って、すごくない?」
「まあ、大学んときからやってたから…。最近ようやく株式会社になったんだ。」
「要するに社長なんでしょ?」
「やっぱ、その文字消したほうがいいよなあ。僕は消したいんだけど…相棒が…。」
「なるほどねえ。」
誰がどう見ても、取締役には見えないわと沙智は思ったが、あえて口には出さなかった。
 
「アズサって、あなたらしい名前だね。」
「え、そう?」
夜になって、二人は河の辺(ほとり)を歩いていた。
川面が夜景を映して輝いている。
その落ち着いた光があふれているせいで、そこは夜でもたくさんの人が歩いている。
ほとんどの人が、誰かと寄り添いながら。
「野上 英…。」
沙智がつぶやいた。
「フルネームで覚えてくれたみたいだな。」
英は笑って言った。
「ところで、詩人なら、何か作品見せてよ。松井沙智さん。」
「作品ね。」
沙智は藍色に澄んだ空を見上げて、ため息をついた。
「本屋さんで買ってよ。ここには持ってないわ。」
「え。売ってるの?」
沙智はニヤっと笑った。
英にはその笑みの真意がわからない。
「今、思いついたのを一つ、あなたにあげる。」
沙智はまるで中学生のボーイフレンドと歩くように、いきなり英の手をとって、くりんとした目で彼を見上げた。
「タイトルは、蜘蛛。」
沙智のやわらかな手がなんのためらいもなく彼の手を取る、その率直な感情に英は不覚にも鼓動を速めていた。
色っぽく迫られるほうが、まだ、慣れている英だった。
こんな素直さは、彼には久しぶりだった。
その感情は、彼女の手からしっかりと英に伝わって来た。
「小さな蜘蛛を捕まえた。
 朝出逢えば逃がされ、夜出逢えば殺される、
 小さな生き物。
 蜘蛛は私の手の中を歩き回る。
 出られまい。
 潰すこともできる。
 だから
 私は手を開けた。
 ぴっぴっと急いで跳んで逃げる。そんな小さな蜘蛛を
 私は鼻で笑い、問いかける。
 なぜ、
 私から逃げてゆく。」
凛とした声がきれいだった。
 
最後の一言が、英の胸に突き刺さった。
英は、突然消えてしまった四季の顔を、揺れる水面に思い浮かべながら、呆然と考えていた。
あのとき、引き止めておけば。しっかりと捕まえておけば…。
そんな後悔と、寂しさが強く彼を責めたてた。
あえて英は、纏い付く暗い思い出をかき消すように笑って見せた。
「…蜘蛛か…。君から逃げる蜘蛛、それは、僕のことかな…。」
 
沙智はまた、何を表すのか分からない笑みを浮かべた後、こうつぶやいた。
「後悔したくないから言うけど…。逃げないで欲しいの、私から…。」
沙智は、きゅっと手に力を入れた。
「好きになってもいい?」
英は避(よ)けきれない直球に戸惑った。
彼は一呼吸置いて、答えた。
「そういうことって、訊く必要あるのかな。」
「いつもなら訊かないよ。」
沙智はすっと手を離した。
「でも、あなたには、訊かなくちゃいけないような気がしたから…。」
二人はそのまま、少しの距離を置いて歩き続けた。

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