good morning

この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています


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「風と君とを抱きしめて」

(9)

もうじき9月というだけあって、朝晩は涼しくなってきた。
ここ数日、英は事務所に早朝から顔を出していた。
風邪をこじらせたのか、酷い咳が続いているが、あの泥酔して遅刻した日以外は、一向に休む気配は無い。
諸々の書類との格闘や、登録希望者との面接を午前中に終わらせると、午後からの得意先回りだけは大成に任せていた。
そして、夕方前に帰ってゆく。
大成が少し探りを入れたところ、
「竹内さんの所だよ。お墓の場所を聞きたいから…。」
と答えた。
どうやら、毎日竹内の家に通っているようだ。
大成は、そんな英に不満はあったが、しばらくは黙っていようと考えていた。
 
miroに派遣されている沙智は、あの日以来一度も無断欠勤はしていなかった。
店長の評判も上々である。
しかし大成は、どう見ても元気の無い沙智のことが気になっていた。
この日もmiroにやってきては、沙智の姿を探した。
「店長、松井は?」
「今休憩よ。」
「そうですか。」
大成が答えると、女性店長は彼のそばに寄ってきて真顔で言った。
「綺麗よねえ、松井さん。大成くん、実は狙ってるんじゃないの?」
「え? あはは…。」
柄にも無く、大成は自分が赤面しているのがわかった。
「逢いたいなら、屋上に行ったら逢えるわよ。」
意味ありげに店長は微笑んだ。
「屋上ですか?」
「そうよ。いつも彼女、屋上で、パンか何か買って食べてるらしいわ。」
「はあ…そうですか。」
屋上か、沙智らしいなと思いながら、大成は店を出た。
 
確かに店長の言葉どおり、沙智は屋上のゲームランドの隅のベンチで、一人パンをかじっていた。
風が強く、埃っぽい場所で、よく食事できるな、と大成は思った。
沙智は大成に背を向けて、ビルの外に向かってベンチに腰掛けていた。
彼女の前にあるのは、白い柵と背の高い金網だけだった。
大成は沙智のすぐそばまでやってきて、声をかけた。
「沙智さん。」
バッと振り向く彼女は、そこに大成を見つけて、ゆっくりと視線を落とした。
「なんだよ、そうロコツに嫌な顔すんなよ。兄貴じゃなくて悪かったな。」
「からかったくせに。」
大成は沙智の隣に腰を下ろした。
「声が似てるんだもん。間違うよ。」
「だろうねー。でも、アイツ今、風邪らしくて、酷え声だぜ。かなりマシになってきたけど。」
「そうなの?」
「何、そんなことも知らないの?」
「…そういえば…。」
大成はちょっと意外そうに、沙智の顔を覗き込んだ。
「夜とか逢ってないの? 電話とかしてないのか?」
沙智は頷きもせず、横を向いた。
「いいんだ。英は四季さんのことが大事なんだし。…私は四季さんの代わりでしか無いわけだし…。」
「いつか振り向いてくれるのを待ってるってか?」
沙智は黙って、食べかけのパンをビニール袋に押し込んだ。
「アイツ、今何してるか、知ってる? 毎日毎日、竹内さんの家に行って、お墓の場所聞いてるらしいよ。どうしても教えてくれないらしい。でも、あの様子だと、教えてくれるまで、通うつもりじゃない? なんでそこまで執着すんのかなあ。よっぽど今でも…。」
大成はそれ以上は言わなかった。言わなくても沙智には十分伝わっているはずだ。
「なあ、沙智。」
沙智は何も答えなかった。ただ、ぼんやりと金網の向こうを見つめていた。
「オレ、沙智のこと大事にするよ。アイツよりもっと…。」
沙智は驚いたように、大成を見た。
「オレじゃ、ダメなんだろ? わかってるけどさ。…オレは、お前を見てる。お前だけを、見てるから…。」
沙智は大成の目をしばらく見つめていた。そして視線を落とすと、つぶやいた。
「ありがとう。」
「なに、それ。オレ感謝される覚えは無いから。ありがとうの代わりにデートしてよ。」
大成は冗談ぽく怒って言った。
そんな顔に、沙智は思わず、ふっと笑った。
大成は、両手をメガホンのようにして口元を覆い、沙智の耳に向けて大きな声を出した。
「きゃー、かわいー。沙智さーん。もっと笑って〜。」
沙智は耳を押さえて、逃げた。つい、笑顔がこぼれる。
そんな彼女の笑顔を見ると、大成は安心したように言った。
「なんでもいいけど、考え込むなよ。いつでも頼ってよ、オレを。」
「…うん。」
 
夜だった。
沙智は一人きりの部屋で、英に持たされた携帯電話をテーブルの上に置き、じっと見つめていた。
ついに、手に取り、英の携帯電話にかけてみる。
5回のコールの末に繋がった。しかし、何も声が聞こえなかった。
「英?」
『…うん。』
「沙智だけど…」
『うん。わかってるよ。』
確かに、彼の声は、酷い声だった。
あの泥酔の日の夜、四季の名を呼んでいた声だ。
「あの…今日も忙しいの?」
『…うん。まあ…。』
沙智は勇気を振り絞って言葉にした。
「逢いたい…んだけど…。無理…?」
英はそんな沙智の戸惑い気味の声にも、はっきりと答えた。
『遅くなるから、やめよう。』
沙智は息を飲み込んだきり、言葉を吐き出せなくなっていた。
英もそれ以上語らない。
遅くなってもいいから、逢いたい。その一言が言い出せなかった。
『それじゃ。』
電話は切れた。
携帯電話を握り締めた沙智の手が、震えて止まらなかった。
 
沙智は携帯電話をテーブルの真ん中に置いたまま、すっと立ち上がった。
靴を履き、アパートのドアを開けた。
時計を持たない沙智には時間はわからない。
しかし、終電までにはまだたっぷり時間があるのはわかっていた。
しばらく歩いて駅に着くと、沙智は切符を買った。
四季さんが亡くなったという海まで、電車なら1時間程度で着くはずだ。
明日は仕事は休みだった。
誰にも気付かれない。
 
 
倫子は大成に誘われて、車でこの夏最後の花火を見に行くことになった。
「沙智を誘わないの?」
「もう誘ったよ。」
「あ、そ。振られたんだ。」
「そんな気分じゃないってだけ。振られてないから。」
あくまでもそう言い張る大成に、沙智は少し意地悪く言ってみた。
「私は沙智の代理なのね。」
「っていうか、一人で行ってもいいんだけど、…友達と一緒のほうが楽しいじゃん。」
「はいはいはいはい。」
「なんだよ。」
大成は苦笑して車を発進させた。
 
鉄橋の手前、赤信号で停車していた大成は、あっと声を上げた。
「どうしたの?」
倫子が呆然とした大成の顔を見て聞いた。
「沙智がいた…。」
「え? どこに?」
「今の電車に乗ってた。」
大成たちの目の前の鉄橋を、今電車が通り過ぎていった。南の方に向かう電車だ。
「こんな時間に一人でどこへ行くんだろう。」
「見間違えじゃないの?」
「間違えねーよ。」
大成はすぐに携帯電話を取り出して、電話をかけた。
「沙智、出ないな…。呼び出してるけど…。」
青信号に変わった。
大成は迷った挙句、いい場所を見つけて車を止めた。
「オレ、気になるから沙智の乗った電車の方角へ行ってみたいんだけど…。」
倫子は恨めしそうに大成を見た。
「そう言われたら、どうぞって言うしかないじゃない。」
「一緒に行く?」
「当たり前でしょ! 私のほうが沙智とは付き合いが長いのよ!」
 
「どこで電車を降りるかわかんないわけでしょ? どうすんの?」
「いや…。」
大成は運転しているので表情は読み取れない。
「こっちの方角ってさ、海じゃん。」
彼の言葉に、倫子はまさか、と思った。
「四季さんが亡くなった、あの海岸…」
「そう。そこが終点だ。」
大成は倫子を見て、すぐまた前を向いた。
「ちょっとさ、嫌な予感がするからさ…。」
 
 
沙智は駅を降りて、潮風の吹いてくる方向へ、歩き始めた。
海は遠くは無い。
波の音も、湿った風も、それを物語っている。
沙智は電車の中で作った紙ヒコーキを一つ持って、
南へと向かった。
 
 
大成が無言で運転していると、大成の携帯電話が着信音を鳴らし始めた。
大成は携帯電話を倫子に放り投げて言った。
「兄貴からだから、出てくれ。」
倫子は頷くと、電話に出た。
「はい。大成のケータイです。」
『大成の兄ですが、大成は…?』
「今運転中ですよ。英さん。私、倫子です。」
『ああ、倫子さん…。今、どこに?』
倫子は大成に向かって聞いた。
「今、どこにいるのか聞いてるわよ。」
「高尾海岸に向かってるって言って。もうすぐ着く。」
倫子が伝えると、英は驚いた声で言った。
『高尾海岸? …そう…』
「あ、あの、デートとかじゃないですからね。」
倫子が慌てて言うと、それを聞いていた大成が、
「用事が無いなら、電話切れ。」
とイラつき気味に言った。
「あの、大成に何か用事でも? お伝えしますけど?」
『うん。…今、やっとお墓の場所がわかったよ。四季のお母さんと話ができた…。』
「そうですか…。よかったですね。」
『それと、沙智さん、知らないかな。…さっき電話があったんだけど、今彼女のケータイにかけても出ないんだ…。一緒じゃないよね?』
「ええ…。沙智は…」
大成が、急に倫子の持っていた携帯電話を取り上げた。
「また後でかけ直す。」
大成は無理やり電話を切って、そのままリアシートに放り投げた。
「沙智を探してたわ。」
倫子は大成を少し責めるように言った。
「遅いんだよ。」
彼はグッとアクセルを踏み込んだ。
 
 
沙智は砂浜に打ち寄せる波に、靴を脱いだ足をつけてみた。
ひんやりして気持ちがいい。
「四季さん…。」
沙智はつぶやいた。
「私は、あなたになりたい。」
夜空に向かって紙ヒコーキを飛ばしてみたが、海風に阻まれて、すぐに墜落し、波の間に白く浮かんでいた。
彼女はパシャパシャと、黒い波の中に足を沈めていった。
「英に、本当に好きになってもらいたい…。」
ひざの上まで、波が上がってきた。
「どうしたら、いいのかなあ…。」
沙智はその場にしゃがみこんで、手を伸ばした。

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