good morning

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「ラブ・マイ・ラブ」

(3)本物は誰だ

 遥哉という男は、一目見た限りでは悪そうに見えないところが、問題だった。
 撫由が彼を見て王子様だと思ったというのは、あまりにも極端だとは言え、一般の人間でも、彼がバーでアルバイトしているようには見えなかった。水商売向きの容姿、いわゆるホストのような風貌でないことだけは確かだった。
 中性っぽい柔和(にゅうわ)な顔立ち。物静かな雰囲気でおとなしい青年のように見える。かといって、まるきりマジメという風でもない。キラリと光る瞳が、隠している野性的な闘争心を垣間(かいま)見せている。
 性格まで知ろうとするなら、彼に対する印象は一変するだろう。
 会社では眼鏡をかけて適当に仕事をして給料をもらっているが、愛社精神とか精勤するような性格は持ち合わせていなかった。キッカリ5時半に退社し、軽い夕食をとっていると、いつものように作田文緒がやってくる。文緒は彼の食事代を支払い、2人して彼のバイトしている店『MOON』へと向かう。その前に、週に一度は、文緒の見立てで服を買う。もちろん支払いは文緒。週末、文緒の資金で競馬を楽しみ、彼女の会社名義のスポーツジムで汗を流し、夜は飲み歩く。飲み歩くときだけは文緒と一緒ではなく、彼1人だった。なぜか、それは、他の女性と遊ぶからだった。
 そうして際限なく女性の携帯番号は増えてゆく。遥哉はその1人1人との関係を大して重くは考えていなかったのと、番号を交換するときには相当酔っているせいで、相手の女性のことを殆ど覚えていない。
「遥哉って優しい目をしてるよね」
「遥哉って寂しそうな顔してる」
「遥哉ってかわいい、子供みたいな顔で笑うよね」
 知り合った女性からは、たいていそんな風に言われるが、遥哉にとってはあまりうれしくない言葉だった。言われるたびに、心の中で退(ひ)いていくのがわかった。
「オマエ、顔、長澤まさみに似せて整形しろ」
 束縛されそうになると、鬱陶(うっとう)しくてたまらなかった。時折冷めた目で辛辣(しんらつ)な言葉を吐き、わざと相手を傷つけた。
「カネのねえ女なんて、抱く気にもなんねーよ」
 彼にとって、女性はブタの貯金箱だった。割る瞬間だけワクワクする。貯めた金を使い切れば、残るのはただのゴミだ。
「オマエなんかに惚れる男、いんの?」
 そして、彼の一番の悪いところは、女性の切り方が、あまりにも残酷だったのだ。

 そんな羊の皮を被った冷血な遊び人が、なぜこんなお嬢様と一緒にいるのだろうか。
 携帯電話を握り締めた撫由に出会った瞬間、もう遥哉の頭の中からは、姫野流詞に紹介する気持ちなど、どこかに消えうせていた。
 遥哉は撫由の肩を抱いて、歩いていた。
 撫由は急に肩に手を回されて驚いて戸惑っていたが、遥哉に逆らうこともできず、ただじっと前を向いて歩いていた。時折遥哉の顔をチラと見上げたが、遥哉はまっすぐ前を見ていた。
 ある店の前で遥哉は立ち止まると、思い出したように撫由の顔を覗き込んだ。
「ナユちゃん、カードか現金持ってる?」
「う、うん。さっき携帯契約するのに、カード使ったよ」
「そっか、そっか」
 遥哉はホクホクした顔で、その店に撫由を連れて入った。高級ワインの並ぶ洋風小料理屋とでもいうのだろうか。居酒屋よりは高級で、フレンチレストランほどのかしこまった雰囲気もなく、遥哉のお気に入りの店だった。
「さぁ、何飲もうかな」
 遥哉はわくわくした表情で、ワインリストをじっくりと眺めた。
「この前コレ飲んだからなー、今日はコッチにしようかな」
 遥哉は全く撫由のことを忘れて、1人で楽しんでいた。
「あ、ナユちゃんお酒飲める?」
 思い出したように撫由を振り返った遥哉は、自分が言った言葉をひどく後悔した。
「私も飲んでいいですか? じゃあ、シャトーデイケムを」
 シャトーデイケムとは、フランス・ソーテルヌ地区の甘口の白ワインであった。
「では、テリーヌでもお出ししましょう」
 撫由は店長の言葉ににっこり微笑んだ。遥哉はリストで、シャトー・デイケムというワインを探したが、見つけられなかった。確かに撫由はリストも見ずにオーダーしていた。リストには無いワインだったのかもしれない。
 遥哉は何食わぬ顔でリストを返したが、内心不愉快だった。これが育ちの違いなのかと思わざるを得なかったからだ。
 するとリストを受け取った店長が遥哉にささやいた。
「遥哉らしくないお相手だな」
 らしくない……。遥哉はその言葉に思わず視線を落とした。確かに撫由は、遥哉がいつも連れてくる華々しい女たちとは違うが、カモであることには間違いない。そう、撫由はただのカモなんだ。
「地味だが、本物だね」
 店長はそれだけ言うと去っていった。
 急に黙り込んだ遥哉を前にして、撫由はなぜだか、自分が遥哉の気に触ることをしたのだと、感じていた。
 ぎくしゃくした空気を取り払おうとして、撫由は思い悩んだ末に、持ち出した話題が夏穂のことだった。
「あのね、夏穂ちゃんて今どこに住んでるの?」
「ん? 何? 知らねー」
 し、知らないの? 姉弟だよね? 撫由は声にならない声で問いかけ、顔を引きつらせた。
「あの……夏穂ちゃんてね、小学校のころね」
「興味ない」
 一蹴されて、撫由はついに口を閉じた。
 注(つ)がれたワインを、水を飲むかのように飲み干す遥哉を、撫由はじっと見つめていた。
 料理には全く手をつけない。ただゴクゴクと飲み続けるだけだった。
 ワインを楽しんだり、料理を楽しんだり、いやそれよりなにより、2人の時間を楽しむような様子はなかった。ただただ、高いワインを飲むことが彼を満足させているようだった。
 会話もなく時間が過ぎた。撫由は遥哉の顔を時々見てワインを口にしていた。
「ナユちゃん、いや、ナユ」
 不意に酔った目つきの遥哉が撫由に向かって言った。
「なんで、そーゆー目でオレのこと見るんだ」
「……そーゆー目、ですか?」
 撫由は困ったように、ワイングラスを置いてうつむいた。
「オレのこと、どう思ってんの」
 そう問われても、この状況で撫由に告白する勇気はなかった。
 撫由が黙っていると、遥哉は目を伏せて口の端に笑みを浮かべた。
「姉ちゃんがアンタをイジメてた理由がわかるよ。そんな目で見られたらたまんねー」
「私、どんな目で遥哉さんを見てるの?」
 撫由は遥哉に問いただした。それは遥哉が意外に思うくらい、強い口調だった。
「育ちの悪い人間を見下したような目だよ」
「見下してなんかない」
「憐れんだ目で見てる」
「見てない」
「じゃあ」
 遥哉は再び言おうとして、ふと気がついた。
「オレのこと、どう思ってんだよ」
 なんで、そんなことを聞く必要があるんだろう。いままで付き合ってきた、というより支払いをさせてきた女性には、そんなことを聞いたことなど一度もなかった。聞きたくなくても、相手の気持ちは嫌というほど聞かされた。
 撫由は遥哉の顔を見ずに、声を落として言った。
「すごく、愛情が必要な人なんだと思ったよ」
「オレは誰からも愛されてないってか?」
「そうじゃないよ……」
 撫由は自分のグラスに3杯目のワインが注がれるのを、横目で見ていた。
「わからないけど、本当の愛情は人間を楽にしてくれるから。遥哉さんは夏穂ちゃんみたいに幸せそうじゃない。夏穂ちゃんは、なんだかんだ言っても幸せそうだったもん」
 遥哉は撫由の言葉に、ふと窓の外を見ながら自分の心を覗き込もうとした。
 オレは幸せじゃないのか。確かに一度も幸せだなんて思ったことはない。でも、不幸だとも思っていない。
 それがフツーじゃないのか?

 2人は支払いをしようと店長を呼んだ。店長は当然のように請求書を撫由に手渡した。
 撫由は支払いを任されたのは初めてで、請求書を持って困ったように見つめていた。
 そんな撫由の様子を見ていた遥哉は、興味本位で請求書を彼女の手から取り上げた。しかし金額を見て息を呑んだ。まさに桁が違う。どうあがいても、遥哉には払える額ではなかった。
「……飲みすぎたな」
 遥哉が少しショックを隠せない様子で撫由の顔を見つめていると、撫由は現金を取り出して請求書と一緒にキャッシュトレーの上に乗せた。一万円札が滑り落ちないように撫由がそっと手で覆うのを見ていた遥哉は、さすがに胸が痛んだ。店長は何事も無い顔で金を受け取り、店の奥に戻っていった。

 店を出てから、遥哉は撫由に尋ねた。
「あんな額、カードで支払えばいいじゃん。なんで現金なんだよ?」
「だって、お父さんの口座から引き落とされるんだよ。急に大金使うと変に思われるもん」
 撫由は微笑んだ。
 すっかり酔いが醒めてしまった遥哉は、撫由の柔らかな笑顔に、しばらく見とれていた。
 その人の心を映したような、透き通った無垢な笑顔だった。
 しかし、ふと我に返った。
「オレたちの親のことだけど……」
 遥哉はあわてて話を始めた。
「オレ、さっきも怒鳴られたんだよ、親父にね。オレとアンタの親って、実はすっげー仲が悪くってな……」
 撫由は黙って遥哉の言葉を聴いていた。
 遥哉は自分でも分からなかったが、撫由とこれで縁を切ろうと考えていた。漠然と怖いという感情が湧いていた。
「友達でいることも無理なんだよ」
 遥哉の言葉に、撫由は黙って下を向いた。
「そうなんだ。じゃあ、遥哉さんとはもう逢えないのね?」
 撫由はゆっくりと顔を上げると、少し首を傾げて、遥哉に尋ねた。
「私がいたら遥哉さんの迷惑になるのね?」
 2人はまだ店の前の街路樹のそばに立ち、お互いの顔を店の明りで確認しあった。
 遥哉は困った顔をしていた。
 撫由のアルコールで火照ったはずの頬からは、赤みが消えていた。店の明りの当たらない方の頬は青白く輝いていた。
「迷惑がかかるのは、オレなんかより、むしろそっちだし」
「私は大丈夫」
 撫由は大きな声で言った。
「私は大丈夫だよ」
 無理に作った笑顔で目を細めた瞬間、ぽろぽろと二筋の涙がこぼれた。
 その涙を、遥哉はなぜか見ていられなかった。女の泣き顔ほど不細工(ぶさいく)なものはないと思っていたのに、撫由の顔を見ると、何かが沁みるように痛むのを感じた。
「大丈夫なワケないじゃん、よく考えろよ! これだからお嬢さんは困るんだよ。ウゼーくらいバカなんだから」
 遥哉は撫由の顔を見ないようにして、空に向かって悪態をついた。
「泣くな、キモチワリィよ。泣いたらなんでも思い通りになるなんて思ってんじゃねーよ」
 撫由は両手で涙を拭いて、嗚咽(おえつ)を飲み込んだ。あとからあとから溢れそうになるのを、一生懸命飲み込んだ。
 遥哉に嫌われたくなかった。撫由の気持ちはそれだけだった。
 涙で濡れた両手で、撫由は遥哉の手を握った。
 暖かい柔らかな手が遥哉の荒れた手を覆った。
「ちゃんとコート着てないから、手が冷たいよ。風邪ひくよ、遥哉さん」
「うるせーな。オレは……」
 撫由は遥哉の体に手を回し、ぎゅうーっと抱きしめた。
「どう? あったかい?」
 撫由は顔を背けたまま、何度も聞いた。
 遥哉は何も答えなかった。




 『MOON』では、突然奥に引っ込んだまま帰ってこなくなった遥哉のことで、店内は火花が散っていた。
「はるやと私はぁ、付き合ってるのよぉ」
 神川彩乃が言うと、文緒が腹を抱えて笑った。
「誰が遥哉と付き合ってるんですって?」
「だから、私よぉ!」
「遥哉はアンタみたいな性格ブスは好みじゃないのよ」
 文緒が彩乃にむかってそう言うのを、姫野流詞が止めようと間に入った。
「いや、男っていうのは性格よりもまず顔だしなぁ、な、幹原くん」
「え? そ、それって慰め方が間違ってませんか……」
 急に振られて、侑(あつむ)はドギマギしながら女の戦いに参戦せざるを得なくなった。
「じゃあ、なによ、アンタは遥哉と付き合ってるって言い切れるの?」
 彩乃に言われて文緒は高笑いだった。
「当たり前じゃない。私が遥哉の時間を全て独占してるのよ」
「え? なに、それじゃ同棲してるんですか?」
 流詞がニヤニヤしながら尋ねた。
「そうよ」
 彩乃が悔しそうにしているのを見ていた侑は、彩乃の代わりに文緒に聞いた。
「付き合い長いんですか? 結婚するんですか?」
 すると、文緒は口をつぐんだ。
 流詞と侑は顔を見合わせた。
 そのとき、店のチーフが4人に向かって言った。
「おい、遥哉が逃げた。探してきてくれよ」
 この店の客は殆どが遥哉の友人関係だったので、チーフは遥哉の脱走癖にも仕方なく目を瞑っていた。しかし、客でもある彼の友人たちに、尻拭いをさせることもしばしばだった。以前も、遥哉の代わりにカウンターの中に入って接客をさせられた友人がいた。
「え、あいつまたサボったんですか? わかりました、オレ探しに行ってきます」
 流詞が立ち上がって店を出て行った。
 流詞のいなくなった店内には、文緒と一つ椅子があいて、侑、彩乃と座っていた。侑はどうこの場を盛り上げようかと必死で考えをめぐらせたが、全くいいアイデアは浮かばなかった。
 凍りついたように空気が止まっている店の中で、急に彩乃が立ち上がった。
「帰る!」
「神川さん」
 侑は驚いて、彩乃の後について立ち上がった。財布を急いで取り出して、チェックをしてもらっていると、彩乃はさっさと店を出て行ってしまった。
 支払いをしている侑を見ていた文緒は、憐れんだ目で言った。
「大変ねえ、あんな子に振り回されて」
 侑は文緒に一瞥を投げかけたが、何も言わず一礼して店を出た。

 白く長いコートがゆっくりと道路沿いの道を歩いてゆく。侑は後から走って追いかけた。
「神川さん」
「あら、誰かと思ったら」
 彩乃は見るからに不機嫌そうな表情で侑をかえりみた。
 侑はそう言われて、返す言葉が無く、ただ黙って彩乃の隣を歩いた。月明かりに輝く彩乃の白い頬がきれいだと、侑は思っていた。しかし彩乃は侑の存在を無視するかのように、イヤホンを耳に差し込んで、何かを聴き始めた。
 侑は駅の明りを見て、立ち止まった。
「神川さん」
 彩乃は侑の声に気づかずに、どんどん歩いて行く。
 侑は時計を見た。まだ電車はある。ここで帰ろう。侑のことを連れとも思っていない彩乃のことは、この際放っておいて、1人で帰るんだ。そう、思っていた。
「僕はここで帰るよ」
 侑が少し大きな声で彩乃の後姿に声を投げかけると、つと彩乃の足が止まった。
 彩乃はゆっくりと体ごとターンして侑を見つめた。
「送ってくれないの?」
 侑はゆっくりと近づきながら、答えを迷っていた。
「タクシー代」
 彩乃は侑の前に手のひらを上にして、金をくれとばかりに突き出した。
 侑は少し面食らってから、それでもスーツの内ポケットから財布を取り出して、中から1万円札を出そうとした。しかし、寸前でやめた。
「送ってくよ」
 侑の言葉に、彩乃はどっちでもいいような顔で、またスタスタと歩き出した。相変わらず、侑をかえりみようとはしない。
 侑は彩乃の後ろを歩きながら、口笛を吹いていた。

 意外にも彩乃は自宅のマンションの入り口までタクシーで乗り付けた。
 降りた彩乃は細い腕を侑の肩に置いて、無表情なまま言った。
「上がっていく?」
 侑は耳を疑った。
「いや、いいよ」
「私1人暮らしよ」
「じゃあ、なおさら、帰るよ」
「なんで?」
 侑はそこまで言われて、断る理由を説明するのは難しかった。彩乃のことだ、単に侑を誘っているのだ。
「泊まれって言うのかい?」
「スーツなら何着かあるわよ」
 彩乃の台詞(セリフ)は、侑の想像をはるかに超えていた。
 侑は彩乃の後についてエレベーターに乗り込んだ。密室になったとたん、彩乃は侑に近寄り、とろんとした瞳を近づけて、すうっと体を寄せた。侑の細い体をそっと包むように抱きしめてから、顔を上げ、侑の頬にキスをした。
 侑が思わず腕を広げて、彩乃を抱きしめようとしたとき、エレベーターは止まり静かに扉が開いた。
 彩乃は笑顔でエレベーターを降りていった。
 あの笑顔は、間違いなく……。侑はがっくりと頭を下げて落ち込んでいた。
 間違いなく、遊ばれている。

 それでも部屋に入ることを許されたというのは、彼女をモノにするチャンスだ……などという甘い考えは、もうすでにこの時点で侑の頭の中からは消えていた。
 この部屋で男の前で下着姿になっている女は、会社で見ているような、清楚でかわいらしい受付嬢の神川さんではなく、単なるエッチ好きの女に過ぎない。いや、それでも会社の人間はうらやむだろう。あんな美人と一晩寝れるとしたら。どんなことをしてでも、それこそ野獣になってでも彼女を襲うに違いない。
 しかし、侑はソファに座ると携帯電話を触ったまま、彩乃のことを見ようともしなかった。先にシャワーを浴びた彩乃が、目の前を半裸の姿で歩いたときも、じっと携帯を触っていた。
「誰かとメールしてんの?」
 彩乃が不審そうに、そしてあきらかに不満そうに尋ねた。
「いや、ロイターニュースのチェックとか、いろいろ」
「寝ないの?」
 彩乃は侑に近寄り、隣に座った。
 侑は立ち上がり、
「シャワー借りるね」
と言って、バスルームに向かった。

 侑がシャワーを浴びて部屋に戻ったとき、彩乃が侑の携帯を触っていた。
「え、何してんだよ」
「ふふ。ほんとにニュース見てたんだぁ。彼女らしいメールないよね」
 侑は言葉が出てこなかった。黙って彩乃から携帯を取り上げると、カバンの中にしまった。
「さ、寝よ寝よ」
 彩乃はもうすっかり酔いが醒めているようすで、うれしそうに侑の手をとってベッドへと誘う。
 侑は彩乃が導くとおりに、横たわった彼女の上に乗ったが、じっと顔を見つめたまま、尋ねた。
「神川さん、遥哉と付き合ってるの?」
 彩乃はせっかくの気分を害されたような苦い顔をしていた。
「どうだっていいじゃない」
「付き合ってるんじゃなくて、付き合ってた、んだろ?」
「そうかもね。でも今はぁ……」
「今も、彼を好きなんだろ?」
 彩乃は目をひそめた。唇を食いしばり、悔しそうな顔をして侑をにらみつけた。
「あんたなんかね、遥哉の足元にも及ばないのよ。それを一緒に遊んであげようって思ってたのに、そーゆーこと言って、私のことわかったような気になって征服した気分になんかならないでよね。サイテーの男よ、あんた。お金持ちっていうだけが取り得じゃない」
 侑は小さくため息をついてから、数秒間彩乃の顔を見つめていた。
 彩乃はまだ文句が言い足りないらしく、大きく息を吸って口を開こうとした。
 侑はその彩乃の鼻先にキスをして、彼女の上から降りた。
 そのまま黙って服を着て、彼女の部屋から出て行った。
 月明かりの下、寒い夜風に当たりながら、侑はタクシーを探していた。
「もったいなかったかなぁ」
 侑はぽつりと漏らした。しかし、苦笑しながら首を横に振った。そして思い直したように、道路に出て、大きく手を上げた。
 タクシーが止まり、侑が乗り込もうとしたとき、彼の携帯が鳴った。
『侑様、すみません、山田ですが』
「ああ、山田さん。どうしたんですか?」
 侑はタクシーの後部座席に座って、幾分表情を和らげた。撫由とは違う小学校に通っていた侑にとって、山田は普通の使用人でしかなかった。。しかし、世間知らずの姉の世話をよく見てくれていることには、いつも感謝していた。
『撫由お嬢様が3時間ちかく前に外出したまま、まだお帰りにならないんですが、お心当たりはありませんか?』
「撫由ちゃん? さあ……。夜に出歩くなんて、珍しいなぁ」
『携帯電話を欲しがってらっしゃったので、駅前の店に契約しにいったのではないかと思うのですが、それにしても遅すぎますし』
「携帯? ほとんど家にいる撫由ちゃんが、なんでそんなもの必要なんだろ?」
『悪い虫がついたのではないかと、心配しているんですが』
「本当に? それはスゴイ! お祝いしなきゃ」
 侑は愉快そうに笑った。
『杉村夏穂さんという方のお知り合いを、好きになられたようなんです』
「そう。杉村さんの連絡先わかりますか?」
『ええ。先ほどお電話してみたんですが、なんだか酷く興奮されていて……』
「興奮??」
『はい。それで、よく事情が聞き出せなかったので、とりあえず駅の方まで探しに来ているところなんですが』
「そうですか、ご苦労様です。撫由ちゃんのお守りは大変ですね。僕も駅を通りますから注意して見ておきますよ」
 侑はタクシーで元の道を戻った。
 駅の近くまで来たとき、淡い店明りに包まれた、恋人同士の影を見た。
「え?」
 侑は身を乗り出してその光景を目に焼き付けた。
 背の高い男は確かに遥哉だった。『MOON』を出た時の制服のままだ。
 そして、その男にしがみついているような格好の、小さい体の女は、あれは、姉じゃないのか?
「すみません、ちょっと止めてくれませんか?」
 侑はタクシーの運転手に声をかけた。




 『MOON』では、1人きりになった作田文緒が店のスタッフと談笑していた。
「帰ってきませんね、あいつ」
 スタッフの1人が時計を見ながら、言った。
「どこかで飲んでるんでしょ。飲み出したら止まらないから、遥哉は」
「全く、困ったやつだな、文緒さんを放っておいて」
 文緒は黙ってカクテルを飲み干した。
 そして、スタッフの顔をじっと見つめて、微笑を含ませながら、質問した。
「誰が本物だと思う?」
「え?」
 スタッフは聞き返した。
「遥哉の彼女って、誰が本物だと思う?」
 文緒はもう一度たずねた。
 スタッフの方は、なんだ、そんな質問かと笑顔になった。
「そりゃ、文緒さんに決まってるでしょ。当たり前じゃないですか」
 文緒はうつむいてクスクス笑いだした。
「ふふふ、そうよねえ。決まってるわよねえ」
「当たり前っすよ」
 文緒は微笑をたたえたまま、椅子の背もたれにゆっくり体を預けた。




 暖かいんだな、と遥哉は思った。
 今まであまりそんなことを考えたことがなかった。人を抱きしめたり、抱き合ったりすることで体温は感じるけれど、今感じているぬくもりは何か違う気がした。
 こんな小さな体で、オレのことを全部包み込もうとしている。オレのこわばった気持ちを解きほぐそうとしてくれている。こんなオレを必死で求めてくれている。そんな気がした。
「オレみたいな男、どこがいいんだよ」
 遥哉は店先で自分を抱きしめ続ける撫由に尋ねた。
 撫由はまだ両腕を遥哉の腰あたりに巻きつけながら、そっと首をあげた。それでも、遥哉の顔を見ることはできなかった。
「どこがいいのかわからない。ただ、そばにいたいっていう気持ちが、いっぱいになるの」
 遥哉は混乱していた。
 なぜか、初めて会ったときから、かわいい、愛しいと思う、遥哉らしからぬ優しい気持ちが芽生えていた。それを肯定したくなくて、必死でそんな自分を見ないフリしていた。
「オレの彼女になりたいわけ?」
 遥哉は冷静を装って、そう尋ねた。
 撫由は遥哉に巻きつけていた手を解(ほど)き、ゆっくりと、遥哉の前に立ち、その顔を上げた。
「だめなんだよね。迷惑がかかっちゃうんだよね」
「いや、そうじゃなくって!」
 遥哉は撫由の青ざめた顔を見ながら、彼女の両肩をゆすった。
 撫由は驚いて遥哉を見つめた。遥哉が何を望んでいるのか解らなかった。

 遥哉は切り捨てることの気楽さを知っていた。邪魔になれば捨てればいい。鬱陶しければ、連絡を取らなければいい。
 今も、今なら、撫由を切り捨てるちょうど良い機会だ。撫由を知らないでいれば、心の中でいろんな葛藤が生まれなくて済む。優しさに対するとまどいや、自分が変わってゆくことへの恐怖や、罪悪感との戦いや……。
 そう、この女は、確実に遥哉を変えてしまう女だ。
「彼女に、なりたいです」
 撫由はかすれた声で言った。
 彼女なんて、つまらねえじゃん。遥哉は喉の奥に違和感を感じた。言い出せない気持ちが塊となって上がってくる。
 オレに媚びて、オレに尽くして、結局捨てられるのがオチなんだぜ?
 そんなんでいいのかよ。
 アンタ、もっと幸せになるべき人なんじゃないのかよ。

 遥哉はうつむいた。
 なぜ、撫由にひかれるのだろう。
 撫由が答えたように、やっぱりわからない。不釣合いな相手だ。なにもかも、自信が無い。
 それなのに、遥哉はこみ上げる衝動に勝てずに、撫由の肩を抱きしめていた。
 撫由は何も言わなかった。
 強く抱きしめられ、撫由は痛みも感じていた。けれど、小さな体は遥哉の信号をしっかりと受け止めようとしていた。


 その時、誰かの声がした。
「撫由ちゃん」
 撫由は振り向き、その声の主を見た。弟の侑だった。侑が撫由の弟だと知っていた遥哉は、気まずい思いで撫由から一歩遠ざかった。
「あっくん、どうしたの?」
 撫由は不思議そうに弟の登場を見つめた。
「うん。撫由ちゃんの帰宅が遅いから、山田さんが心配してたよ」
「あ、そっかー」
 そして、撫由は微笑むと、遥哉に侑を紹介しようとした。
「あの、遥哉さん、この子は弟の……」
「僕のことなら知ってるよね、遥哉」
 侑は遥哉に声をかけた。遥哉は、ああと小さく答えた。
「え? どうして……」
「だめだよ、撫由ちゃん、遥哉とは付き合わないほうがいいよ。撫由ちゃんの思っているような人じゃないよ」
「ええ?」
 いつも温和で人の悪口を言ったり拒絶したりすることのない侑が言った言葉に、撫由は大きなショックを受けていた。
「でも、あっくん……」
「彼は、撫由ちゃんが探しているような王子様じゃないよ。多分、真逆だ」
「その通り!」
 侑の後ろから大声でそう言ったのは、なんと、髪を振り乱してやってきた夏穂だった。
「夏穂ちゃん!」
「姉ちゃん!」
「どれだけ探したと思ってるのよ、この姉不幸者が!! 携帯は全く通じないわ、店に行ったら脱走したわで、この近辺ずっと自転車で走り回ったのよ! こんな時間によ!! 一体、どうしてアンタって子は人に迷惑かけないような生き方ができないのよ!!!」
 遥哉はうんざりした顔で後ろを向いた。
「いい、あんたたち、今すぐ別れなさい。金輪際(こんりんざい)連絡をとっちゃだめ!!」
「そうだよ、撫由ちゃん。遥哉には彼女がほかにいるから、諦めるんだよ」
「そうですよ、撫由お嬢様!」
 夏穂の陰からぬっと出てきたのは、あの恐ろしい形相の山田だった。
「山田先生!」
 撫由と、そして夏穂と、そして、やはり同じ小学校の遥哉が、山田の登場に大声を上げた。
 山田は撫由の手を引っ張って、侑の所へ連れてきた。
 夏穂は、その撫由の手を離そうとしない遥哉を、後ろから羽交い絞めにした。
 二つの家族に分かれたまま、遥哉と撫由は見詰め合っていた。
「遥哉さん!」
「ナユ」



 遥哉と撫由が、芽生え始めた感情をコントロールできたとするなら、このときが最後のチャンスだったかもしれない。
 引き離され、素直に家族の言葉や自分の日常に従って生きることを選んでいたら、再び2人が逢う事はなかっただろう。
 
 しかし。




「何考えてるの。遥哉」
 ベッドの中で、遥哉の腕に頭を乗せていた文緒は、そう尋ねた。
 何も答えない遥哉に、文緒は続けて問う。
「私たちって本物の恋人同士よね?」

 遥哉は眠れないまま、目を閉じた。




 ベッドの上で1人、ちょこんと座っていた撫由は、買ったばかりの携帯電話をてのひらに乗せて見つめていた。
 誰からの着信も無い。まだ遥哉にすら番号を伝えていなかった。
 遥哉の携帯にかけてみると、電源が入っていないというアナウンスが流れた。
「明日……」
 明日はきっと、かならず。
 撫由は希望を胸に、眠りについた。

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