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| 「ラブ・マイ・ラブ」 (4)君がくれたもの 杉村夏穂が旧姓豊里だと知ると、使用人の山田はようやく全てが飲み込めたようだった。 実のところ、担任をしていたくせに、現在の夏穂の完全に主婦化した様相に、昔の面影を全く見出せなかったのだ。 彼女の弟、豊里遥哉も受け持ったことがあるが、小学生の頃はおとなしく、姉のような勝気なところの無い普通の少年だった。普通すぎてあまり印象にも残っていない。 山田の中では、大金持ちで泣き虫でいつも誰かにいじめられている、幹原撫由の印象ばかりが残っていた。撫由も弟と同じように、お金持ちの子が通う私立の学校に行けばよかったものを、撫由は近所の子供と同じ学校を望み、普通の公立の小学校で勉強していたのだ。中学からは、超お嬢様学校に入れられてしまい、今のような世間知らずの天然お嬢様が出来上がってしまったのだが。 朝食を食べながら、撫由はぼんやりとミルクティーを見つめていた。 昨夜、無理やり遥哉と引き離されたが、まだ、彼女に危機感はなかった。 ただ、両親はもちろん、山田も弟の侑(あつむ)も、撫由の恋の味方ではない。撫由は遥哉を好きになっても、誰の力も借りられないことだけは分かっていた。 「遥哉って、豊里記者の息子なんですか?」 朝食を終えて仕事に向かう侑が、山田に駅まで車で送ってもらう時に、こっそりと尋ねた。 山田は、岩に般若を描いたような顔を侑に向けて、うなずいた。赤信号の間の短い時間で、山田は豊里家と幹原家の確執を伝えた。侑が雑誌や新聞などで見聞きした内容と相違ない内容だった。糾弾される企業にも悪い点があると考えていた侑としては豊里家に対してそれほど憎しみを抱きはしなかった。むしろ企業の膿を出すいい機会だと思っていた。 しかし、その豊里家の息子の遥哉のことは、許せなかった。 侑は車を降りて電車に乗り込むと、たった二駅の短い時間だが、狭い車内で考え続けた。 何も知らない撫由に言い寄って、遥哉は何を企んでいるんだ。カネなのか、遊びでからかっているだけなのか、それとも幹原の娘だからわざと苦しめるつもりなのか。 遥哉には文緒や彩乃以外にも、まだまだ懇意な女性がいそうだった。しかもみな美人で垢抜けていて、世慣れたような女性たちが。 姉のようにちょっと天然が入った純然たるお嬢さんを、もしも悪意を持って近づいて泣かせるつもりなら許さない、侑はそう心に誓った。 撫由は昨夜の帰宅時間が遅かったことで、夜は外出禁止を言い渡された。撫由の逢っていた相手が豊里遥哉だと、山田から報告を受けた父親の怒りは相当なものだった。彼は、母親と山田に撫由を監視するように言うと、撫由とは口もきかずに家を出て行った。 撫由には、今は携帯でしか遥哉と連絡を取る方法が残されていなかった。 母親に隠れて何度も、遥哉に電話した。しかし、携帯からは電源が入っていないという虚しいアナウンスを聞くばかりだった。 遥哉さん、お願い、携帯の電源を入れて。それとも、私を避けてるの? 撫由は、事実を知りたかった。だから、その目で確かめようと思った。 出社してから、遥哉はずっと黙りこくっていた。姫野流詞が「昨日どこ行ってたんだよ」と問い詰めても、眼鏡越しにチラと見返しただけで、何も言わなかった。流詞はそんな遥哉の態度を見て、いい加減頭にきていた。 「お前がバイトサボるのは勝手だけどさ、っていうか、勝手じゃなくてオレたちにも迷惑はかかってるんだけどな。そんなことよりさぁ、文緒さん待たせておいて平気なの?」 「文緒が文句でも言ってたのかよ」 「オレは逃げたお前を探しに行ったんだけど見つかんねーし、ツレにも逢ったからよそで飲んでたんだよ。で、11時ごろだったかな、一度『MOON』に寄ってみたら、文緒さんだけでカウンターに座ってるじゃん。なんか、かわいそうになったよ」 「オレが部屋に帰ったのは3時ごろだったかな。文緒は何も言わなかったぜ」 そう言う遥哉の傲慢さに、流詞は辟易(へきえき)して表情を歪ませた。 「今にフラれるのがオチだな」 遥哉は流詞に言われても、知らん顔で立ち上がると自分でコーヒーを淹(い)れに行った。 デスクに戻ってコーヒーを飲んでいると、女子社員の1人から声をかけられた。 「豊里さん、ちょっとだけお話があるんですけど……」 前から、遥哉に意味深な視線を投げかけていた子だった。男性社員との交際の噂も多い。 だいたい彼女の話の中身は想像がついた。 遥哉は黙って立ち上がった。片手にコーヒーを持ったまま。 廊下の端、あまり人目にはつかない場所に遥哉は呼び出された。 「豊里さんって、お酒よく飲むんでしょう?」 遥哉は眉をちょっと動かして、口元に少し笑みを浮かべた。 「私おいしいワインのお店知ってるの」 相手は両手の指を絡めながら、伺うように遥哉を見ながら言った。 「一緒に行きません? そこ、食事もイケるんですよ」 遥哉はコーヒーを飲んでいた。 女子社員は少し遥哉の言葉を待っていたが、あまりに間があくので、耐えられずに続けた。 「仕事忙しいですか? 残業しそう? 今日じゃなくてもいいんだけど……」 遥哉はカラになった紙コップを潰して、女子社員の方は見ずに、 「またね」 と言った。 相手は、必死になってポケットから何かを出して、遥哉に押し付けてきた。 「じゃあ、またいつでもいいから、電話もらえませんか?」 遥哉の手のひらの中には小さな紙切れがくしゃくしゃになっていた。もちろん、そこに何が書かれてあるのかは見なくてもわかった。 遥哉はその紙を指でつまんで持ち上げると、相手の目の前で、それを潰れた紙コップの中に押し込んだ。 「こういうの、困るんだ」 女子社員が呆然と立ち尽くすのを無視して、遥哉はそのまま廊下のゴミ箱に紙コップを捨てた。 結構美人でプライドも高い、その女子社員を相手にしなかったことで、遥哉の評判は地に落ちた。女子社員が鬱憤(うっぷん)を晴らすように遥哉のことをひどく悪く言ったせいもあるが、女子の間だけでなく、男性社員の反感も買ってしまった。 流詩はそんな遥哉の噂を聞くと、いい気味だと思っていた。しかし、まだ少し同情する気持ちも残っていた。 「おい、遥哉」 流詞に呼び止められ、ちょうど5時半になったので帰ろうとしていた遥哉は振り返った。 「今日一日、ほとんど、お前しゃべんなかったな」 遥哉は冷めたような目つきで流詞を見つめるだけだった。 「考え事か? 昨日、何かあったのか? オレでもよかったら聞くけど」 遥哉は一瞬視線を落とすと、5秒してから真剣な瞳を流詞に向けた。 「助けてくれるか?」 「ああ、なんだよ、言ってみろよ」 流詞は、遥哉が何を言い出すのか、深く考えずに承知したが、それはすぐに後悔することになった。 侑が外回りの営業に出ていると、同伴していた先輩社員が面白そうに話し出した。 「受付に神川彩乃って女がいるの、知ってるか?」 侑は胸がズキっと痛むのを感じた。昨日の今日で、その名前は聞きたくない気分だった。失恋というよりも、夢を失ったみたいだった。彩乃にはほかに好きな男がいるのだ。女の影が複数感じられる、そんな男を好きなまま、寂しさを紛らわせるように言い寄ってくる男と適当に遊んでいる彩乃のことを考えると、悲しい気持ちになった。 「そうなんですか。僕は名前までは知らないですけど……」 侑がいつものように興味なさそうなフリをして返すと、先輩は彼の興味を無理やりにでも引こうと、ひじでつついた。 「今度、コンパでその子を誘うんだけど、おまえ、その役頼むよ。うまくすればお持ち帰りできるぜ。なにしろ、社内でもその子とやったっていう男は多いからなぁ」 侑はキッと先輩社員を睨みつけた。 「怖い顔すんなよ」 「僕はそういうのは、遠慮します」 「あ、そう」 先輩は不満そうに侑の顔を見た。 「まあ、おまえがダメなら、ほかを探すしかないなあ」 「どうしても、その、神川さんって人を誘うんですか?」 「当たり前じゃん。うまくしたらスワッピ……」 「ちょっと、待ってください」 侑は顔を真っ赤にして、先輩の口を押さえた。 「わかりました。僕も参加します」 「お、なんだ、おまえも結構エロいんじゃん」 この男に何を言われても、何を思われても構わなかった。彩乃がこのままでは、野獣のような男たちの餌食にされてしまう。まあ、彼女の普段の行いのせい、自業自得なのかもしれないが、侑には放っておくことはできなかった。 会社に戻って、受付の前を通るとき、侑は「お疲れ様」といい、彩乃の顔を見た。彩乃は一瞬だけ侑の視線を受け止めたが、すぐに視線を逸らした。 彩乃は、侑の姿が見えなくなってから、顔を上げて彼が消えた方のエレベーターを見ていた。 スーパーの入り口の前に立ち、両腕を組んでゲーム上の戦士のように睨みつけているのは、杉村夏穂だった。そして、睨みつけられているのは、幹原撫由だった。もしも夏穂が機関銃でも持っていたなら、確実に撫由の額を狙っていただろう。 「アンタね、ほんとに懲りないわね」 撫由は夏穂の前で嬉しそうに笑っていた。 「夏穂ちゃんに逢えてよかった」 「何言ってんのよ。仕事の邪魔しにきたの? いい? 遥哉のことは諦めてよ。アンタたちのことを応援する人なんか、この世にいないんだからね。っていうか、遥哉が本気でアンタなんか相手にすると思ってるの? アンタは遥哉のこと知らなさすぎるわ」 夏穂は頭を抱えた。どれだけ言えば、この鈍感娘はわかってくれるのだろう。 王子さまはいない。仮に王子様がいたとしても、それは決して遥哉なんかではないと。 「遥哉さんの携帯の番号、もう一度教えてほしいの」 「だめよ。絶対にだめ」 「じゃあ、私も携帯買ったから、この番号を遥哉さんに渡してほしいの」 撫由は小さな紙に自分の番号を書いたものを夏穂に渡そうとした。 「受け取れません」 組んだ腕を解こうともせず、夏穂は両足を踏ん張って立ち続けている。 「じゃあ、遥哉さんの会社を教えてくれない?」 「なんていう会社だったか忘れたわ」 「バイト先のお店の場所は?」 「今日は休みなんじゃないの?」 撫由はじっと夏穂を見た。遥哉が遥哉なら、夏穂も夏穂だわ、とひそかに思った。 夏穂は、先生が宿題を忘れた生徒を見下ろすような目で撫由を見つめた。 撫由はそっと目を伏せると、納得したようにうなずいて笑った。 「そうだよね。夏穂ちゃんに迷惑かけちゃだめだよね」 「ようやくわかったようね。そう。迷惑なの。大迷惑。営業妨害。ストレス。胃痛のもと!」 夏穂は大声で言ってから、少し声を低くした。 「なんで、遥哉の番号失くしたりしたのよ」 「失くしたんじゃないの。かけても、つながらないの。電源が入っていないか電波の届かないところにいるっていうアナウンスが流れてて」 夏穂はふと自分の携帯を出して、遥哉の番号にかけてみた。確かに同じアナウンスが流れている。 「わかった」 夏穂はあきれたような顔で、携帯を閉じ、ポケットにしまった。そして、撫由の肩をトントンと叩いた。 「わかったよ、アイツ、携帯捨てたんだわ」 「え? 捨てた?」 「そう。よくやるの。鬱陶しくなると、勢いで捨てちゃって、後でしょうがなく機種変。」 そういえば、撫由は携帯を遥哉に見せたとき、確かに彼が「オレも買わねーと」と言ったのを覚えている。 撫由は呆然として、考え込んでいた。 「わかったなら、もうさっさと帰りなさい。まぁ、しばらくしてほとぼりが冷めたら、きっと通じると思うわ。電話番号まで変えるわけないでしょうしね。それまでガマンしてなさい。ここに来ていることがバレたら、ご両親に叱られるでしょ。さ、帰った帰った!」 撫由は夏穂をすがるような目で見つめた。しかし、何も言えずに、夏穂に背を向けてトボトボと帰りかけた。すると、撫由の背後から、夏穂の声が聞こえた。 「その番号書いた紙、いらないなら、その辺に落として行きなさいよ」 「え?」 撫由は驚いて夏穂を振り返った。自分の番号が書かれた紙を夏穂に見せて、これ?と聞いた。 「そう。もしかしたら、誰かが拾ってくれて、遥哉に届けてくれるかもしれないよ」 撫由は夏穂の顔をじっと見て、少し嬉しそうにうつむくと、手の中の紙をそっと落とした。そして、店を後にした。 夏穂はその紙を拾うと、エプロンのポケットに入れて、何食わぬ顔で仕事場に戻った。 作田文緒はいつものように遥哉が食事をしているであろう店に顔を出した。しかし、遥哉はそこにはいなかった。携帯も通じない。どこにいるのだろうと思いながら、今朝の遥哉のことを思い出していた。 もとからあまり食べない遥哉だが、いつもサラダと牛乳だけは口に入れていた。しかし、今朝は文緒が目覚めたとき、すでにスーツを着て部屋を出て行くところだった。 「どうしたの、早いのね」 文緒が声をかけたが、その声は彼には届かなかった。 静かにドアを閉める音が響いた。 昨日の夜、夜中に帰ってきた遥哉は、それからあまり寝ていない様子だった。今朝まで眠れなかったのだろうか。どうしたのだろう。今まで、こんなことは一度も無かった。 漠然とした不安のような、静かな薄暗い感情が心に積もってゆくのを、文緒は感じていた。 文緒は夕食も取らずに、『MOON』に向かった。 「冗談だろ」 流詞は吐きそうな顔で、下のモノを見ていた。 寒い路地で、遥哉はためらいもせず上半身裸になっていた。 悪臭が漂い、流詞は鼻と口を手で覆う。「手伝えよ」と促す遥哉を睨みつけた。遥哉は『MOON』の裏通りで、生ゴミを入れているバケツの中に腕を入れた。 「なんだって、生ゴミ漁りをしなきゃなんねーんだよ」 「携帯を落としたんだ」 「へ?」 「どうしても、見つけねーと」 「なんで? お前、携帯よく失くすじゃん。いつも、たいして気にしてねーし」 遥哉は黙って生ゴミの中を手で探っていた。 「新しいの、買えよ。どーせ、壊れてるって」 「わかってるよ。でも、もしかしたら生きてるかもしんねーし」 遥哉があまりにも真剣に探しているので、流詞は仕方なく、自分もシャツを脱いでソロソロと腕をゴミの中に突っ込んだ。 10分ほどして、遥哉がついに携帯を見つけ出した。2人の男の手で、その携帯はきれいに拭かれ、ゆっくりと開けてみたが、液晶もボタンも水に濡れていた。遥哉は電源が切れているその携帯が故障なのか電池切れなのか確認するために、そのままの格好で携帯電話ショップに持ち込んだ。流詩は、『MOON』でタオルを借りて、服を持って、遥哉の後を追いかけた。 携帯ショップでは、遥哉の格好を異様な目で見つめたが、黙って携帯電話を調べてくれた。 「残念ですが、充電しても電源が入りません。修理されますか? ただ、修理しても無理だった場合は新規の機械をご購入いただくことになりますが」 「修理しても、データは飛ぶんだろ?」 「ええ、多分残ってませんね。初期状態になります」 「なら、意味ねー」 遥哉はそのまま、あれほど血眼(ちまなこ)になって探した携帯を見捨てて、店を出た。ついてきた流詞と一緒に、近くにあったスポーツジムに入り、トイレを借りた。トイレでは温水も出るし、石鹸もある。汚れた両腕を2人はしっかりと洗った。 それから、2人で丼屋で食事をした。 「お前がこういう店で飯食うなんて、なんか不思議だな。お前はいつもいい店に入ってるじゃん」 「自分のカネで食えるのは、こんなもんさ」 「ああ、全部文緒さんが出してくれるからな」 そう言って納得した流詞に、遥哉は言い返した。 「酒ならカネをかけてもいいが、飯にカネをかけたくねーんだ。それだけだ」 「でも、実際、文緒さんに全部出させてるじゃん」 流詞の言葉に、遥哉は食事をやめた。 しばらくして、流詞が聞いた。 「あの携帯、なんでそんなに必要だったんだ?」 遥哉は黙ったままだった。 「どうせ、新しい携帯になっても番号を引き継ぐことができるだろ?」 新しい携帯に電話番号を引き継いで、電話帳が真っ白だったとしても、嫌というほど電話やメールが来て、そのうちまた電話帳はいっぱいになるだろう。いや、電話帳なんて遥哉にはどうだってよかった。 「もう二度とかかってこないかもしれない電話の履歴が、あの携帯には残ってたはずなんだ」 遥哉はすっと立ち上がった。 もう一度携帯ショップに顔を出すと、遥哉は新規で契約を申し込んだ。ついてきた流詞は、遥哉をつついて、「お前、番号変えちゃって大丈夫なのかよ」とささやいた。 遥哉はあの生ゴミの入ったバケツに携帯を放り込んだ時から、番号に未練はなかった。つまり携帯でつながっている相手との関係に未練はなかったのだ。というより、その関係を絶ちたかったと言っていい。 ただ、撫由が携帯を買って、自分の携帯にかけてきていたことは、計算外だった。あのとき、撫由の携帯の番号を聞いておけば、連絡を取ることができたのに、それができなかった。まだ自分の気持ちの整理ができていなかったからだ。 いまとなっては、彼女も遥哉と連絡を取ることを周囲に反対されているだろうから、もう彼のことなど諦めてしまったかもしれない。そうだとしたら、遥哉から連絡を取らない限り、彼女にはもう逢えない。 もう、逢えない。 そう考えたとき、遥哉は初めて失うことを怖いと思った。 遥哉は『MOON』へは行かず、重い足取りで、フードショップ・ハートスに向かった。 姉の夏穂がまだ仕事をしていた。その様子をじっと見ていては、かける言葉も無く店の隅に立っていた。 夏穂が仕事を終えてレジから出てきたとき、弟の遥哉を見つけた。いつからそこにいたのか、彼は店の壁にもたれて目を閉じている。近づいてみると、疲れて眠っているようだ。 「遥哉」 名前を呼ばれて、遥哉は驚いて目を覚ました。顔を上げた目は赤く、顔色も少し悪かった。 「あんまり寝てないんでしょ」 「寝てねーよ」 「なんで?」 「オレの勝手だ」 相変わらず可愛げのない物言いだった。 「何しに来たの?」 夏穂は意地悪く聞いた。遥哉がわざわざ、呼んでもいないのに夏穂のところに来るなんて、理由は決まっている。 遥哉は紙を取り出し、震える指先で夏穂に渡した。 「オレの携帯、番号変わったから。姉ちゃんに」 「へぇ。私に?」 「ああ」 「ほんとに私でいいの?」 遥哉は黙った。 「そ、わかった」 「あ、親父にはその番号教えるなよ。それと、もしナユが……」 「撫由の名前は禁句よ」 夏穂はピシャリと言った。その代わり、エプロンのポケットから小さな紙を取り出して、遥哉に渡した。 遥哉は携帯の番号が書かれているその紙を見つめてから、夏穂の顔を見上げた。 「なに? これ」 「そこの入り口に落ちてたの。誰の携帯の番号かわかんないけど、とりあえず、サービスカウンターに届けておいてくれない?」 「え? オレが?」 「そ。よろしく。私は帰るから」 夏穂はそれだけ言うと、店の奥に引っ込んで行った。 遥哉はその紙を穴が開くほど見つめていた。ゴクリと唾を飲み込んで、遥哉はその番号を持って、店の外に出た。 もう7時を回った頃だ。撫由は何をしているだろう。 遥哉は新しくなった自分の携帯から、夏穂に託された紙に書かれた番号にかけてみた。 数回の呼び出しにも、相手は出ない。 切ろうか、そう遥哉が思ったとき、相手が電話に出た。 『はい』 「もしもし」 『……はい。その声は遥哉さん?』 名前を呼ばれて、遥哉は胸が熱くなるのを感じた。 「ナユ」 『はい』 撫由が電話越しに微笑んでいるのがわかる。 遥哉は街灯の明りの下で、抑えきれない頬の強張りを感じ、足で砂を蹴るような仕草を繰り返していた。落ち着かず、緊張して、恥ずかしさと嬉しさと安堵感とが入り混じった気持ちが湧き上がる。 「ナユ」 『なに?』 「逢いたい」 『え?』 「逢いたい」 『でも……』 撫由は困っているはずだ。きっと夜に外出なんて、無理に違いない。そう思っているのに、遥哉は自分の言葉を取り消せないでいた。 「家の前まで行くよ」 『だめ、だめだよ』 遥哉はもどかしくて、思い通りにならない辛さを味わった。 『待ってて。なんとか抜け出すから』 会社から駅に向かう道を歩く女性の二人組がいた。侑は走ってその二人に近づき、「あの」と声をかけた。 振り返った神川彩乃は、侑の顔を見て一瞬身を引いていた。 「神川さんにちょっとお話があって」 そう言うと、彩乃の連れの女性は、彩乃をその場に残し一人で駅へ向かった。 「何ですか?」 周囲の目がある道では、彩乃の態度は普通と変わりなかった。ただ、侑に向けた視線は冷たかった。 「金曜にカラオケでも行きませんか? 営業のみんなで行くんですけど、神川さんにもぜひ来てほしくて」 「用事があるかも」 彩乃はすっと横を向いてそう答えた。 「食事も近くの焼肉屋に行くんだけど、女性は全額無料だそうです」 侑はできるだけ事務的に伝えようとした。 彩乃は一つため息をついた。 「焼肉にカラオケって、ありきたりでつまんないわ」 侑は、自分にはこれ以上彼女を説得する技術はないと思った。早々と諦めモードに入った。 「そうですか。じゃあ、欠席ということで、みんなに伝えておきます」 会釈してその場を去ろうとした侑は、ふと思った。 今回、彼女がコンパに出なくても、彼女への悪い噂は消えない。彼女を下心いっぱいで誘う男たちは後を絶たないはずだ。彼女も寂しさの根本から抜け出せない限り、自暴自棄は続くだろう。寂しさを紛らわせ続けるのだろう。それでいいのだろうか。そのまま放っておけるのか。他人のことと割り切ることができるほど、想いは冷めたんだろうか。 侑は立ち止まり、彩乃を振り返り、言った。 「神川さん、今晩僕と、焼肉・カラオケに行きませんか」 「え?」 彩乃は何言ってんのコイツ、という顔をして、侑を大きな目で睨みつけた。 「だめですか?」 彩乃は首を横に振った。 「社長の息子だったら、もっとマシなデートは考えられないの?」 「僕は普通の平のサラリーマンですから、薄給なんです。その程度で精一杯ですよ。ガマンしてください」 「ガマン? 女にガマンさせるの?」 「それも大事なんじゃないかな」 侑は彩乃の目を見て、付け足した。 「要は、どんなデートをするかじゃなくて、誰とデートするかだと思うんだけど」 彩乃は呆れて口が塞がらないという顔をしていた。 侑は彩乃の手を取って、駅とは逆の方向に向かうタクシーを拾った。彩乃の足は最初のうち、戸惑って突っ張っていたが、タクシーが停まると、何も言わずに乗り込んだ。 侑はタクシーの中で、彩乃の顔をじっと見つめた。 すると彩乃は、苦笑をもらしてから、初めて肩の力を抜いて自然な表情になった。 遥哉は街灯の下で待つ間、いろんなことを考えていた。 撫由はいろんなものを持っている。物質的なものではなく、そばにいると暖かくなれるような雰囲気や、尖った気持ちを和ませてくれる微笑みや、天使のような許しの瞳を持っている。 オレは何も持っていない。だから、撫由の持っているものが全てほしい。 ほしいと言ったら、彼女はくれるだろうか。与え続けてくれるだろうか。 遥哉はずっと撫由が来るのを待っていた。 しかし、撫由は2時間待っても現れなかった。遥哉が電話しようと思ったときだった。 「遥哉」 遥哉は声をかけられて、はっと顔を上げた。 そこにいたのは文緒だった。 「どうしたの? 何してるの、こんなところで。寒いじゃない、どっか入ろうよ」 「いや」 遥哉は文緒の顔を見ないようにうつむいた。 「誰かとデートなの?」 文緒は悪びれるでもなく、普通に聞いてきた。しかし、遥哉は答えなかった。答えなかったことが、文緒を不安に陥れた。彼女は遥哉の浮気癖ならよくわかっていた。けれど、それらはみんな遊びで、かならず自分の所に戻ってくるという確信があった。だから、浮気など気にも留めなかった。それなのに、この遥哉の態度はどうだろう。まるで初めてのデートを親に見つかったかのような困りようだ。 「帰ろう、遥哉」 文緒は遥哉の腕を取って、引っ張った。遥哉はゆらりと動いた。文緒はもっと力を入れて引っ張っていると、遥哉が急に言った。 「ごめん」 文緒はその言葉の恐ろしさに硬直した。 「何がごめんなの?」 「帰れない」 「どうして?」 「もう、一緒に暮らすのはやめようと思うから」 文緒は数秒黙っていたが、ふふふと笑い出した。 「うそ。遥哉は私がいないと困るでしょ? いままでの生活、できなくなるのよ? さんざん遊んで暮らせたのは、私のおかげじゃない」 「うん。お前のカネのおかげだ」 文緒は遥哉の言葉の意味がわかった。 「そう。愛なんてなかったって、言うわけね」 「お前は、オレの時間をカネで買ってたんだろ?」 文緒は軽く目を閉じた。倒れそうな気がした。心臓が激しく鳴り、その場にしゃがみこんだ。 その時、小さな足音が聞こえ、文緒はゆっくりと顔を上げた。遥哉の顔色が明るく変わっていた。後ろから来る足音を振り返ると、小さなお嬢さんが寒そうな格好で体を震わせながら遥哉に向かって近寄ってきた。 「ごめんなさい。なかなか抜け出せなくて」 赤い頬で微笑むその顔は、本当に幸せそうだった。あんな笑顔の子は、遥哉の傍にはどこにもいない。みんな格好をつけた作り笑いのような顔で遥哉と対していた。遥哉の表情が硬く、無表情になっていたのは、そんな女たちのせいなのだろうか。文緒は、今の遥哉がやわらかい笑顔でその子を見つめているのに気づいた。 遥哉はその子と手をつなぎ、同じ歩幅で歩いて行った。 文緒は、遥哉という男は、強引に女性の肩を抱いて、連れ去るようにしかできない男だと思っていた。 二人の後姿を見ながら、文緒はゆっくりと立ち上がった。 そんなことはあるはずがない。遥哉が私なしに生きていけるわけがない。どうせ、すぐに戻ってくる。文緒は信じていた。そして、黙って二人に背中を向けた。 今年初めて飾られた、駅前の広場のクリスマスツリーを囲んで、カップルたちが肩を寄せ合っていた。 遥哉と撫由もきれいなイルミネーションを見あげて、時を過ごした。 突然、バチンという音がして、せっかくのツリーの電飾が一瞬にして消えてしまった。どこかショートしたのだろう。あたりは真っ暗になり、カップルたちは名残惜しそうに、ぽつぽつとその場を立ち去り始めた。 撫由が遥哉を見上げると、遥哉は撫由の髪をそっと撫でた。 暗闇とともに、辺りのざわめきがひときわ高く聞こえるような気がした。撫由が握り締めた手に少し力を入れた。 「遥哉さん、どこへ行く?」 「うん。どこへ行こう」 遥哉はそっと撫由の顔に近づき、頬にキスをした。 「遥哉さん、震えてる?」 「ナユの頬が冷たいからだって」 すると再び、ツリーの明りが点灯した。遥哉と撫由はお互い間近で顔を見合わせた。 二人は照れて、少し離れた。 指先だけはいつまでもつながっていて、あたたかかった。 「ナユ、ごめんな。どうやって楽しませてあげたらいいか、オレわかんないんだ」 「え?」 撫由は意外そうに遥哉を見た。 「どうして? 今でも十分楽しいよ」 遥哉の中の心細さを、撫由の笑顔は吹き飛ばした。 そばにいるだけで、いいんだよ。 撫由の瞳がそう言っていた。 しばらくして、撫由の携帯が鳴った。携帯を持っていることを知っている山田には、撫由も番号を教えないわけにはいかなかった。山田は、早く帰ってくるようにと言った。 撫由は遥哉にごめんね、と頭を下げた。 遥哉はうん、と答えた。それ以上は、言いたくても言えなかった。 遥哉は、撫由を家の近くまで送った。大きな邸宅で、背よりも高い門が閉じられていた。二人が近づくと、山田が門を開けに出てきた。 「お帰りなさいませ」 山田は丁寧に撫由を迎え入れると、遥哉の方に一瞥を投げかけ、こう言った。 「撫由お嬢様は夜間外出禁止だ。たぶらかすのはやめなさい。君のせいでお嬢様がコソコソ出かけるのを見るのは辛い」 元担任ということもあって、遥哉に対する威圧感はすごかった。山田はそれだけ言うと門を閉めた。 遥哉はその場から立ち去れずに、ずっと家の様子を見ていた。3階の窓に明りが灯ると、すぐに窓が開いた。 撫由が顔を出し、手を振っていた。 遥哉も手を振り返した。 言葉がでそうになるのを、必死で抑えながら、遥哉は撫由に手を振り続けた。 遥哉は夏穂の家に向かった。 当然夏穂は遥哉を締め出そうとしたが、夫の祐輔が泊めてやれよと言うので、仕方なしに家に入れた。 「これから、ごやっかいになります」 「なんですって!? 冗談じゃないわよ!!」 夏穂の訴えを聞くこともせず、遥哉はさっさと布団に包(くる)まって眠ってしまった。 「ちょっと、それ私の布団!!!」 しかし、夏穂は、遥哉の笑顔を久しぶりに見たような気がして、少し嬉しかった。もちろん、そんなことは一言も弟には言わなかったが。 「そういえば」 と祐輔が思い出したように言った。 「ミキハラ、かなりヤバイよ」 寝ていたはずの遥哉もその声に目を覚ました。 「経営傾いててさ、ウチに吸収合併されるかもしんないって」 「え? チューピーとミキハラが?」 夏穂が驚いて聞き返した。そして、その経営統合の陰には、意外な事実が隠されていたことを知った。 |
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