good morning

この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています


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「ラブ・マイ・ラブ」

(5)届かない指先

「焼肉屋は嫌だわ。臭いがついちゃう」
 彩乃はぽつりと言った。その態度は、昨夜とは違い、あまりにも静かで元気がないと侑(あつむ)は思った。
「焼肉・カラオケって言ったのは冗談だよ。神川さんの好きなところでいいし、僕が決めていいなら美味い寿司屋を知ってるけど」
「そう、じゃあ、そこへ連れてって」
 彩乃はタクシーの窓から、外の景色を見ながら言った。侑は彩乃がわがままを言わないのは、酔っていないせいなのか、それとも昨夜のことを怒って彼に距離を置いているせいなのか、判断できなかった。
 もしかしたら、と侑は思い巡らせていた。
 もしかしたら、彩乃の頭の中は、遥哉のことでいっぱいなのかな。僕がいくら傍にいても、彼女の目には映っていないのかな。
 たとえそうだったとしても、今は強引に振り返らせることは無理だろうと考えた。彼女の傍にいて、守ってやれる男でいたい。今はそれでいい。彼女の傷まで、全部受け止めてやれる男になりたい。
 相変わらず、窓の外を見ている彩乃の横顔を見てから、侑は自分も窓の外に視線を移した。それ以上の会話はなく、二人を乗せたタクシーは静かに目的地に着いた。

 寿司屋でお腹を満たした二人は、人通りのある道を少し離れて、並んで歩いた。
 日本酒で酔っているはずの彩乃だったが、今日はおとなしかった。二人の間を、時折人が追い抜いていった。
 突然、彩乃がつぶやいた。
「がっかりしたわ」
 侑は彼女の言葉に視線を落とした。何にがっかりしたのか、侑にはわからなかった。店に対してなのか、デートのコースなのか、それとも侑自身になのか。
「ごめん」
 侑は謝った。がっかりさせたのなら、謝るほかはない。
「思っていた人と違うわ、幹原くん」
 ああ、僕に対しての不満だったのか、と侑は落ち込んだ。しかし、できるだけ平静を装って黙っていた。
「お金持ちの一人息子で、女の子にチヤホヤされてて、営業部でも指折りの実績を出して」
 彩乃は一言一言、かみしめるように言った。
「もっと、自信家で嫌なヤツで遊び歩いてて、そう、遥哉みたいな人だと思ってた」
 侑はゴクと喉を鳴らした。遥哉という名前の響きに、ナイフで胸をえぐられるような痛みを感じた。
 彩乃が侑の誘いに応じたのは、遥哉の面影を探していたせいだったのだ。
「ごめん、僕は……」
 僕は、遥哉にはなれない。いくら、君のためだとはいえ、遥哉のような男にはなれない。
「私、遥哉の気を引こうといろんなことしてきたわ。ああいう人を相手にすると、自然と性格も曲がっちゃうのよ。嫉妬で狂いそうなのに、平気な顔してみせたり、エッチすれば振り向いてくれるんじゃないかと思ってみたり、好きでもわがまま言ったり、ずっと待ってるのに待ってるフリをしないで……」
 彩乃はついに言葉をつまらせた。
「神川さん」
「そういう小悪魔っぽい子を演じてみせたら、結構ほかの男の人もうれしそうだった」
「もう、いいよ。神川さん」
「言わせて」
 彩乃は大きな声で言った。
「だから、狙ったら落とせない男なんていないと思ってるのよ、私」
 自嘲気味に笑うと、彩乃は白い息を吐いた。
「誘われる前から、幹原くんを狙ってたの。でも、がっかりよ。思ってた人と違う」
「ごめん」
 侑はもう聞きたくないと思っていた。情けないが、恥ずかしくてそこにいるのが辛かった。
「いい人過ぎるよ。私は付き合えない。一緒にいるのがしんどいもん」
 彩乃は一度も侑の顔を見ようとはしなかった。侑もまた、彩乃の声を聞くだけで精一杯だった。
 彩乃は静かに言った。
「これからはもう、私を誘うのはやめてください」
 こんなとき、男はなんて言えばいいんだろう。侑は言葉を探した。フラレた男は、明るく笑って退散するべきなんだろうか。
「じゃあ、今夜だけ」
 侑が選んだ言葉は、男としては潔くなかったかもしれない。
「今夜だけ、もう少し付き合ってください」

 侑は、父親の知り合いが経営するドイツワインの店に、彩乃を連れて行った。
「侑くん、久しぶりだな」
 店のマスターは父の知り合いとはいえまだ若く、侑の兄のような存在だった。
「おいしいワイン飲みに来ましたよ」
「OK、それにしてもかわいい彼女を連れてきたもんだな」
「そうでしょう」
 侑は嬉しそうににこにこ笑った。
 彩乃は侑の隣に座って、かしこまっていた。侑の嬉しそうな顔が、少し気になった。
 それまで、無口だった侑が急に饒舌(じょうぜつ)になって、マスターと、大リーグがどうのとか、ダーツの大会がどうのとか、ワインの品評会がどうのとか、果ては沖縄でのダイビングの話にまで花を咲かせていた。
「侑は写真もやってるしな」
「ああ、最近はなかなか海外にまでは撮りに行けませんよ。それより、季節的にスノボですけど、ウチのペンションにまた来てくださいよ」
「おお、ありがと。毎年楽しみなんだよ」
 彩乃はそんな話をする二人を見ていて、少しうらやましく感じた。彼らの世界は確実にその辺の同年代の男たちよりも広いのだ。お金があるからだろう。でも、お金があっても趣味があるかどうかは別問題だ。侑はいろんなことに興味を持ち、楽しむことを知っている人だ。好きなことを話すときのキラキラした瞳は、とてもきれいだった。
 こういう人が社長になるんだな、と彩乃は思った。この人と結婚すれば、社長夫人? そう思ってから軽く目を伏せた。社長夫人なんて私の柄じゃない。ただ、オフではこんなに無邪気な少年に戻る人を、久しぶりに見た気がした。
 表情のない、クールな遥哉を愛していたのに、なぜだろう。侑のことが、人として魅力的に見える。

 あっという間に2時間が過ぎ、侑は帰りのタクシーを拾って、彩乃を乗せた。
「僕は電車で帰るよ。気をつけてね」
 侑は運転手にお金を渡し、そして彩乃のそばのドアを閉めた。
 彩乃は急いでドアの窓を開けた。侑は一歩下がって、もう見送る姿勢だった。
「幹原くん……」
「ん?」
 侑は彩乃の目を見て戸惑った。なんで、そんなに寂しそうな目をするんだろう。
「運転手さん、出して」
 侑は運転手を促して、彩乃の顔を見ないようにしてタクシーを見送った。




 撫由は急に父親に居間に呼ばれて、元気なく椅子に座った。
「撫由、どうして約束を破ったんだ?」
「だって……」
「口ごたえは許さんぞ。父さんは夜は外出禁止だと言ったはずだ」
 撫由の向かい側に座っている父は、厳しい口調で撫由を叱り付けた。
「お前にはちゃんとした家に嫁がせるために、花嫁修業をさせているはずだ。それをニートやなんかと勘違いされては困る」
 父は頑固そうな一重の目で撫由を睨み、薄い唇をかみ締めていた。
「はい。ごめんなさい」
 撫由は素直に謝った。
 小さい頃から父は偉大で恐ろしい存在だった。彼の命令は絶対で、家族の誰も、逆らうことはできない。
「撫由、そこでだ」
 急に、父が声を和らげた。
 撫由は父の顔を見上げた。さっきまでの怒りの表情は消え、静かな社長の顔になっていた。社長は非情な決断を下すのにも、指先一本で済ませる。その力を撫由は身をもって知ることになる。
「撫由に縁談があるのだ」
「わかりました。会ってみます」
 撫由はいつもの縁談だと思ってそう答えた。しかし、父は首を横に振った。
「会ってみますじゃないんだ。もう婚約をする予定だ」
「え?」
「チューピーという会社の重役の息子さんでな。38歳、結婚暦は無い」
 撫由は父の言う意味がわからず、その顔を穴が開くほど見つめていた。




 杉村祐輔は夏穂に言ったつもりだったが、急に寝ていた遥哉が起きてきたので、話題をどうしようかと戸惑った。
「義兄さん、合併するって、ほんとですか?」
「あ、ああ」
 祐輔は話を続けることにした。
「うちの重役の息子で、部長職の矢内さんて人がいるんだけどね。その人と、ミキハラの一人娘が結婚するって噂だ」
 遥哉はあっけにとられていた。
「そんな、政略結婚なんていまだにあるんですか?」
「うん、それがな。この矢内って人が、もうどうしようもない男でな。同じ会社の人間の悪口は言いたくは無いが、ひどいオタク、いや変質者って感じなんだよ。いままでも女性と付き合ったことが無いようなヤツさ。オレたちから見ても、気味が悪い男だよ。何か軽犯罪くらいなら犯してるんじゃないかって噂してるくらいだ」
 遥哉は聞いているうちにムカムカしてきて、顔が赤くなってきた。
「で、そんな男でも嫁は欲しいもんだから、合併の話を持ち出されて、交換条件に娘をよこせと、そういうワケさ」
「人身御供(ひとみごくう)じゃねーか」
 思わず遥哉は大声で言った。
 祐輔はわけが分からず、驚いていたが、夏穂には遥哉の心情が理解できた。
「遥哉、アンタ寝てないんだから、もう寝なさい」
「寝れるか」
「アンタがどうあがこうが、どうしようもないでしょ。ミキハラだって会社と娘とを秤(はかり)にかけて、会社の方が重かったってことなんでしょうから」
「そんなっ!!」
 夏穂も内心、撫由を気の毒に思った。社長のお嬢様に生まれてしまったがために、好きな人とも一緒にいられないのだ。
「撫由は……その、ミキハラの娘は、結婚相手がどんなヤツが知ってんのかな」
 祐輔は遥哉の問いに、なんてことない顔で答えた。
「さあ。でも、ミキハラの社長は知ってるはずだぜ。何度も会ってるからな」
 夏穂はため息をついた。
 遥哉は怒りで両の拳を震わせながら、うつむいた。
「そうまでして、会社を守りたいのかよ」

 遥哉は背を丸めて布団にもぐりこんで、動かなかった。しかし、眠ったわけではなく、ずっと考えていた。撫由がその変態と結婚せずに済む方法はないのだろうか。オレとじゃなくてもいいから、誰かまともないい男と付き合って、幸せになってほしい。あんなに、人を幸せにしてくれる柔らかな笑顔を持っている撫由が、変質者と共に監禁されるような生活をしなければならないなんて。
 オレになにかできるだろうか。オレには組織を動かすような力は無い。できるのは、唯一、撫由をさらうことだけ。
 そんな苦しみの淵から、撫由を救ってやることだけだ。
 誘拐? 拉致? オレもやっぱり犯罪者なのか?




 文緒は束ねてあった写真を絨毯の上に広げてみた。困ったようにそっぽを向く遥哉と、嬉しそうな文緒。文緒がカメラで無理やり撮ったツーショットがたくさんあった。
 そして、遥哉が笑っている写真もたくさんあった。それらを、壁中に張りつけ、どこを見ても遥哉がいる部屋になった。
 文緒は携帯を取り出すと、電話をかけ始めた。
 夜、12時になろうとしていた。
「もしもし、私。誰だかわかる?」
 相手は困ったようにうめいていた。
「文緒よ、文緒。遥哉の彼女の。流詞くん、元気?」
『ああ、文緒さんですか。びっくりしたなー。オレは元気ですよ、なんですか? 遥哉に用事ですか? あいつ携帯変えたしなぁ』
「え? 遥哉、携帯、変えたの?」
『あ、あ、知らなかったですか。やべ、遥哉に怒鳴られるかな』
「いいのよ。遥哉はもう私には逢わないらしいから」
『え?!』
 姫野流詞は困惑して言葉を失くしていた。
「遥哉のこと、気にしなくていいのよ。流詞くん、私のこと、好きだったんでしょ?」
『え?……』
「今から、来ない? 私、寂しいんだ」
『え……。文緒さん。大丈夫ですか?』
「もちろんよ。遥哉は私には逢わないって言ったけど、絶対に私のところに戻ってくるのよ。それまで、どう、流詞くん。一緒にいるのも悪くないんじゃない? 私はあなたのこと、嫌いじゃないわ」
 流詞はやはり返事に困って、黙っていた。
「嫌いなら、いいわ」
『いや、嫌いじゃないっす!』
 文緒は口の端に笑みを浮かべた。
「なら、いいじゃない」
 しかし、流詞は友達でもある遥哉の、同棲までしていた彼女に近づいていいものか、まだ悩んでいた。
「お願いがあるのよ」
 文緒は、そんな流詞が動きやすいような、助け舟を出した。
「遥哉のこと、取り戻すには少し計画が必要だと思うの。それをね、一緒に考えてほしいの。ベッドの上でね」
 色っぽい声で、ベッドの上で、などと付け加えられた日には、流詞の良心の琴線はプチンと音を立てて切れてしまった。
『じゃ、今から行くよ』
「まってるわ」





 翌日の昼休み、遥哉は何も食べずにタクシーで撫由の家まで飛ばした。
「撫由、オレ」
 携帯で撫由に連絡を取る。
『遥哉さん? どうしたの? 仕事は?』
「昼休み。今から逢いに行くから、あと5分したら、門のところに出てて」
『え?』
 撫由の戸惑いが伝わってくる。遥哉の顔は山田に知られている。門の前に立ってなどいたら、追い払われるかもしれない。それを心配しているのだろう。でもいいんだ。今はただ、逢いたい。どこへも行かないで、オレの手の中にいてほしい。

 タクシーで幹原家の塀伝いに走っていると、少し塀のくぼみのところに、人影があった。
 車を停めると、遥哉は走って門のところまで行った。
「撫由っ!」
 おもいきり抱きついた。
 感情が高ぶっていて、その硬いコートにも愛しさを感じていた。
「遥哉さん……」
 変な方向から撫由の声が聞こえた。
 遥哉の2メートルほど前方、抱きしめたこのコート越しに見える撫由が、全身を小さく縮めて、困った笑顔をうかべて彼を見つめている。
「え?」
 そういえば、この黒いコートはデカすぎるな、そう思いながら遥哉は顔を上げて、驚愕した。そこには黒いコートに包まれた、エルム街の悪夢のフレディが象のような牙と水牛のような角を生やして襲い掛かろうとしているような錯覚さえ思わせる顔があったからだ。
「や、や、や、や、や、山田でんでい……」
「豊里遥哉、どうしてお嬢様をたぶらかすんだ。昨日、忠告したはずだ」
「だ、だって。昼間だし、それに門の近くならいいかなと思って……」
 まるで子供が必死で言い訳するように、山田を上目遣いで見て、口を尖らす遥哉だった。
「山田先生、おねがいです。私、遥哉さんと少しお話がしたいだけで……」
「お嬢様は黙っていてください。私はご主人様から厳重に監視するようにと命令されていますから」
「ご主人様って……」
 そうつぶやいたのは遥哉だった。その目には怒りがこみ上げていた。
「山田先生、知ってんのかよ、そのご主人様、つまり撫由の父親とやらが、どれほど残虐なことをしようとしているか!」
「残虐?」
「ああ、残忍至極、非道の極地、実の娘をみすみす奈落の底へ突き落とすようなことをしたんだよ!! それもすべて、ミキハラっていう会社を守るためにな!」
 山田は、遥哉を同じような形容詞でののしっていた撫由の父親の顔を思い出した。
「その言葉、そっくりそのまま豊里遥哉に返すがね」
「なんで、オレが!?」
 山田は遥哉に静かに尋ねた。
「お嬢様を愛してるのか?」
 遥哉は真っ青になった。今まで一度もまじめに考えたことの無い、大問題を突きつけられたからだ。愛するってなんなのか、わからない。なのに、愛してるって答えていいのだろうか。

 そばにいたいんだ。
 いっしょにいるだけで、幸せになれるんだ。
 素直な自分になれるんだ。
 嫌いな野菜だって食える気がする。
 楽しいんだ。
 外の景色まで違って見えるほど、ウキウキしてるんだ。
 大切なんだ。
 傷つけたくないんだ。
 守りたいんだ。
 どんな男にも、触らせたくないんだ。

 愛してる……?

 山田はうつむいたままの遥哉の肩を叩いた。
「君の言いたいことを、教えてほしい。なぜ、撫由お嬢様のことをご主人様が悪いようになさると思うのか」
「撫由の婚約相手のことを教えてもらった。言うに耐えない酷い男だ」
 山田は顔に似合わない優しい声で言った。
「ほほう。それは確かな話なのか」
 撫由は心配そうに黙っていたが、ゆっくりと遥哉のそばにきて、彼の腕を抱きしめた。やわらかな上質のカシミヤの真っ白のセーターが、まるで、うさぎのようだと遥哉は思った。暖かい、そしてドキドキとした鼓動が伝わる、小さい動物のような撫由。
「山田先生、私のために、その相手の人のこと、調べてもらえませんか?」
「調べることはできますが、父上のご決断を覆(くつがえ)すことは難しいと思いますよ」
「でも、私、そんな酷い男と結婚するくらいなら、死んだ方がマシですもの」
 誰よりも、結婚に夢を抱いて、王子様を待ちわびていた撫由のことをしっているだけに、山田は彼女を慰めることができなかった。
「では、もう一度。私がそのお相手の方の身元や素行調査をして、その結果がでたら、もう一度、三人で逢いましょう。それまでは、撫由お嬢様は遥哉に逢ってはいけません」
「そんなっ」
 遥哉は山田の手をとって、ブンブンと振り回した。
「オレは毎日、逢いたいんだよ!!」
 山田は困ったように、考え込んだ。
「君の携帯の番号を教えなさい」
 遥哉は仕方なく、山田に番号を教えた。
「毎日、1時間だけ、昼間の外出時に、家から遠く離れた場所で逢いなさい。決して家のものに見つからないように。そして必ず時間を守ってお嬢様を自宅に帰すこと。約束を破れば二度と逢う事はできない。それでどうだ」
「わかった」
 そして、今度は山田は撫由に向かって優しく言った。
「お嬢様の外出には、必ずこの私が付き添いますので、コソコソと出かけてはいけませんよ」
「え、じゃあ、遥哉さんに逢うときも、山田先生はどこかで見てるの?」
「まぁ、そういうことですね」
 撫由も遥哉も不満だったが、それでも外で逢う事が許されたのだから、ほっとしていた。しかし、まだ撫由の婚約が破棄されたわけではない。今度はそちらに向けて、なんとか作戦を練らなければならない。
「あと、10分だけ、そばの公園にでかけてもいい?」
 撫由が山田に尋ねた。山田はゆっくりと肩を落としてうなずいた。撫由にはどうしてもダメだとは言えなかった。

 公園には、お昼時だけあって、子供ですら遊ぶ姿は無かった。寒いベンチに新聞をかけて寝転んでいるホームレスらしい人がいるだけだった。
 二人は白く太陽の色を映した砂の上を歩いた。
 手をつないで、ゆっくりとした歩調で、お互いの息遣いを感じるほどに、寄り添っていた。
「寒いねえ」
 遥哉はスーツの上にコートを着てくるのを忘れ、体がシンシンと冷えた。
「あったかくなりたいね」
 撫由はきゅうと遥哉の腕にしがみついた。
「オレさぁ」
「どうしたの?」
 遥哉はまだ考えていた。
 撫由は待っていた。
「部屋借りようと思うんだ。自宅から通ってることになってるけど、今まではいろんなところ転々としてたからね」
「うん。そっか」
「借りたら、遊びに来てよ」
「うん。もちろん」
 遥哉は喉元まで出掛かっている言葉を飲み込んだ。

 本当は、一緒に住もうよって、そう言いたかったんだよ。




 侑は会社でも、派手な受付嬢に恋をしてしまったことを、ひどく後悔した。彼女たちが話題に上らない日は無い。彼女の姿を見ない日は無い。みんなの憧れ、みんなのアイドル、みんなの羨望の的。
 そのうちのひとり、神川彩乃は若い男性社員たちに圧倒的に人気があった。幹原侑が神川彩乃にアプローチして、見事散ったという事実はあっという間に広がった。彩乃が言ったのかもしれないし、彩乃の友人の口から流れ出たのかもしれない。とにかくひどく落ち込んでいた侑にとっては、はやくこの台風が過ぎ去ってくれればいいと思っていた。
 社員食堂で食事をすると、姿を見かけ、侑は情けないながら、その姿が見えない位置へと席を移動する。トイレへ立とうとすると、廊下でばったり会う。お茶を自販機で買っていると、後ろに彩乃が並んでいる。エレベーターに乗ると、なぜか彩乃と二人きり。
 侑は、よく会うなぁ、と内心困惑していた。
「あの、幹原くん」
「え?」
 こんな狭いエレベーターの箱の中で、声をかけられるとは思いもしなかった侑は、驚いてぎこちなく体を回転させて、彩乃を見た。
「なんか、噂になってるね」
 彩乃は相変わらず、きれいな顔で微笑んでいた。
「うん。でもフラれたのは事実だから、しょうがないよ」
 侑は精一杯強がりを言って見せた。とにかく、この雰囲気から逃げたかった。
「私、嫌いじゃないよ、幹原くんのこと」
 彩乃の言葉に、侑は一瞬胸が躍ったのだが、すぐに、社交辞令のような、後戯のような、「やさしさ」なのだと悟った。
 侑は思わず、フッと笑って、ずるいなぁと思った。そうか、僕がどんなに好きなのか、きっと神川さんは知らないんだな。それを知ったら、そんな言葉残酷すぎて、言えるわけない。
「僕も、嫌いじゃないよ、神川さんのこと」
 侑はにこにこ笑って、平気なフリをして言った。
 しかし、彩乃は笑わなかった。
「本当に嫌いになってない?」
 侑は、わからないほどの小さいためいきをついた。心配しなくても僕が君の悪口を言いふらすことなんか、しない。そんな男じゃない。
「うん、そんなすぐに嫌いになれるわけないよ」
「じゃあ、あのね……」
 彩乃がためらいながら口を開いたとき、エレベーターが止まり、開いたドアから男が一人入ってきた。
「おう、侑。おや、神川さん」
 入ってきたのは、侑の同僚で営業の弘瀬だった。この男はあまり恋愛話に興味はなく、侑と彩乃の件も耳に入っていないようだった。
「あのさ、お前の実家の会社さ、スゴイことになってんな」
「ん?」
 侑は今朝は新聞を読んでいなかった。気分的に普段、普通にできていることが、できなかったのだ。
「なんだ、息子のくせに知らねーのかよ、ミキハラとチューピー合併するってよ」
「えっっ? チューピーと合併?」
「経営統合で、社名はミキハラ・チューピーになるらしいぞ。そこまで話が進んでんのに、知らんのか」
「知らなかった」
 弘瀬は雑誌を持っていたカバンから出して、侑の目の前でそのページを開いて見せた。
<ミキハラの命−経営の傾倒した会社の選択>
<チューピーの重役の息子と、ミキハラの社長の娘の婚約が、年内にも成立>
 弘瀬は重役の息子という文字を指でなぞってから、大声で言った。
「知ってるか、この男、ド変態だぞ。お前の姉ちゃんか妹かしらんが、結婚する相手は、まともな男じゃないってことだ。それでいいのかよ、お前んちは」
 撫由ちゃん、と侑は頭の中で叫んだ。真っ白になっていくのがわかった。
 嬉しそうな顔や優しい瞳や、甘えん坊の唇や、泣き虫なところや、そんな子供のようにあったかい撫由ちゃんが、ド変態の奥さんに???
 侑は首を横に振った。そんなこと、絶対だめだ。そんなことしたら、撫由ちゃんは死んでしまう。
 僕が、僕がなんとかしなくちゃ。
 僕に、いったい何ができるんだろう。




 流詩が文緒の部屋を出たのは、昼過ぎだった。会社には完全に遅刻だった。
 実のところ、それほど強い好意があったわけではなく、ちょっときれいな女性だなと思っていた程度なのだが、二人きりで一夜を明かすと、感情はジャックの豆の木のようにズンズンと太く大きく成長してしまった。
 多分、セックスの力も大きいのだろうが、男というのはなんて単純なんだろうと思わずにいられない。
 考えればすぐに分かることだ。文緒が愛して求めているのは遥哉なのだ。それなのに、抱き合っているときにまるで、自分を求めているような錯覚に陥る。自分が文緒を征服しているような錯覚に陥るのだ。
 昼近く、流詩の目が覚めたとき、文緒は冷静な態度でこう言ったのだ。
「わざわざ来てくれてありがとうね。計画どおりに、お願いね」
 計画? 流詞はセックスのことしか覚えていない、そんな脳みそをなんとか振り絞り、昨夜文緒を交わした約束を思い出す。

 幹原撫由っていう子を、なんとかしてほしいの。
 なんとかって?
 なんとかよ。ヤッても、ウッても、なんだってかまわないわ。
 え?
 なんだっていいの。もう二度と、遥哉の前に出られないような女にしてちょうだい。
 強姦(ヤ)る? 風俗(ウ)る?
 流詞は、思い出した文緒のさわやかな笑顔に、身震いした。




 そっと、遥哉は遅れて会社に戻ってきた。
 ちょうど、その頃、流詞も出社してきた。
 流詩はわざと、遥哉から目を逸らし、自分の仕事を始めた。
 遥哉は仕事など手につかず、ただ、婚約という悪魔の行事から彼女を救いたいとばかり考えていた。
 遥哉にできることは、彼女を連れて逃げることくらいだ。ずっと一緒にいることだ。
 そのかわり、仕事も辞め、住む場所も無く、フラフラと逃げ惑う。遥哉が楽しんでいたラクな生き方は、すべて消えてしまう。彼女を包む、その指を離さないためには、そうするしかないのだ。
 そんなとき、突然、流詩が声をかけてきた。
「おい、何ボーっとしてんの?」
「いや、そんなことねーよ」
 流詞はニヤニヤ笑った。
「お前、文緒さんと別れたってホントか?」
 遥哉は黙って流詞を見た。
「なんで、お前が知ってる?って顔してるな。オレは直接本人から聞いたんだよ、文緒さんからな」
「それで、文緒から何か伝言でもあるのか?」
 流詞の顔を見ずに、遥哉はだるそうに横を向いた。
「いや、これはオレからの忠告。さっさと文緒さんの所に戻れ」
「はぁ?」
「忠告したぜ」
 流詞はそれだけ言って、そばを離れようとした。
 遥哉は流詩の手をとって、強引に振り向かせた。
「おい、どういう意味だよ」
「意味? 女を粗末に扱い続けてきたお前が、いつかは泣く日が来てもおかしくねーだろ。泣きたくなけりゃ、文緒さんの所へ戻るんだな」
「は? オレが女のせいで泣く? ありえねー」
 遥哉は唾を吐き捨てるように言った。
 流詞は、そんな遥哉の顔を見て、軽蔑した笑みを浮かべた。
「お前は大切なものを抱きしめられない。いつも、両手を広げても、その指が届いて無いんだ。だから、女はお前の前から消えていくんだ。覚えておくんだな。自分の力の無さを」
 遥哉は流詩の胸倉を掴んで、顔を寄せた。辺りの社員たちが騒然となって、二人を囲んだ。
 流詞は首を上げ、遥哉の視線を真っ向から受けると、ゆっくりと首を振った。
「オレはどうなっても知らねーからな」
「なんだよ、お前、何隠してんだよ!」
 興奮した二人の男たちは、その後隔離され、冷静になるまで別々の部屋に監禁された。
 夕刻になると、さっき逢ったばかりの撫由に、もう逢いたくなる遥哉だった。
 助けてあげる。オレが必ず。
 多分、撫由、君は、オレのすべてなんだ。
 ずっと、手をつないでいたい。この指が届かないなんて、考えられないよ。
 微笑んでいてくれるだけでいいから。オレのこと、見ていてくれるだけでいいから。


 そんな頃、夏穂はひょっこり父親の雑誌社を訪れていた。
「お父さん!」
「なんだ、夏穂、こんなところに。珍しい」
「実は、面白いネタがあるのよ」
「なんだ?」
「変態男と純情お嬢様の、カネまみれの婚約」
 夏穂がニヤリと笑うと、父親もへえという顔をした。
「バックには大企業、ミキハラとチューピーの経営統合があるのよ」
「それは……、オレには書けん。両社とも爆弾だからな。なんで、そんなこと言ってくるんだ?」
「だって、私、ミキハラの娘と同級生なんだもん」
 夏穂は、うつむいて、父親の怒りを覚悟した。しかし、父親はしばらく考えていたが、
「婚約を破棄させたいのか? そんなことすると、ミキハラは潰れるぞ。オレは一向に構わんがな。よし、もっとゴシップ好きな女性週刊誌を紹介してやる」
と言って、喜んでデスクの引き出しからメモを取りだして、電話を始めた。

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