good morning

この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています


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「ラブ・マイ・ラブ」

(6)ふるえる

 あれから二、三日続けて、昼の休憩時に、遥哉は撫由に逢いに来た。
 今日も、タクシーの中でパンを齧(かじ)り、紙パックのコーヒーを飲んでは握りつぶしてカバンに詰め込んだ。
 ほんの数分の距離に、遥哉は、胸が締め付けられるような思いを抱いた。焦りというか、恋しさというか、心配というか、複雑な感情だった。撫由を独りにして待たせている時間を思うと、辛いのだ。彼女が置かれている状況を思うと、辛いのだ。心細いだろう、怖いだろう、こんな頼りない男に好かれて、苛立たしいだろう、泣きたいくらい悔しいだろうと。
 遥哉が相手の気持ちに立って考えたことは、この時が初めてではなかっただろうか。
 それくらい、弱気になっていた。
 考えれば考えるほど、出口が見つからない。そんな迷路の真ん中で、立ち尽くしていた。二度と逢えないような恐怖に縛られて、もがいていた。

 山田がいつもどおり、玄関前で立っている。撫由は山田の傍から、停車したタクシーの脇まで飛び出してきた。
「遥哉さんっ」
 撫由の満面の笑みは、安定剤のように、遥哉の心のざわつきを沈めてゆく。タクシーを降りて、もう山田の姿など見えないかのように、二人はぎゅっと抱きしめあった。山田の咳払いが聞こえる。それでも、離れられない。タクシーの運転手が、料金を求めて待っている。それでも、離れられない。
 撫由のほうが、少し赤面して、遥哉から離れた。
 遥哉はひどく大きなため息をついて、山田の顔も見ずに、撫由の手を握り締めてタクシーにもう一度飛び乗った。山田はすぐに追いかけてくるだろう。それでも今は二人きりで、邪魔なものは何一つ、運転手さえ遥哉の目には入っていなかった。
「遥哉さん、あのね」
 撫由が静かに言った。遥哉はびくっとして、撫由の手を強く掴んだ。
「明日の土曜、会うことになったの。ウチに来られるらしいわ」
「チューピーの?」
「うん」
 遥哉は急に運転手に道の変更を伝えた。
「後ろのロールスロイス、上手く振り切ってくれよ」
 撫由はその尋常でない遥哉の行動に驚いて、顔を覗き込んで訊ねた。
「遥哉さん? 山田先生との約束、破るの?」
「ああ」
 遥哉はそっけなく、でも確固たる意思を持って応えた。
「でも……」
 撫由は困り果て、上目遣いで遥哉の怒ったような顔つきを見つめた。
「明日なんだろ? そいつと会うの」
「え、うん」
「じゃあ、もう帰せないだろ?」
「帰せない?」
「帰っちゃだめなんだよ。そんなやつと会うなんて、絶対許さないからな」
「遥哉さん……」
 タクシーは駅で停まった。まだロールスロイスは後から着いて来ない。
 遥哉は撫由の手をとって、駅の下り方面のホームに向かった。電車はまもなく到着する様子で、大勢の人がそこで待っていた。スーツ姿の遥哉と、上品なコートを羽織った撫由は、お昼ののんびりした乗客たちに混じって、息を静めて、入ってきた電車に乗り込んだ。




 朝、幹原侑(あつむ)は、新聞を隅から隅まで読んでから、会社へ出かけた。食卓ですら顔を合わすことの少ない、姉の撫由のことが心配だったが、父親の手前、それを口に出すことはしなかった。
 父が決めた会社の生き残りの方法、それに逆らうことは許されない、いや、もう決定事項なので覆らない。撫由は少しの時間だけ辛抱して、すぐ離婚するというふうに持って行くことはできないだろうか。そんな変態なら、離婚の裁判だってきっと勝てるに違いない。
 しかし。撫由に耐えられるだろうか。甘やかされて、かわいがられて、辛いことも何一つ知らずに育ってきている人なのに。
 今、あの遥哉に騙されていることすらも、精神的に無防備な証拠だ。
 そんな人だけれど、侑にとっては愛すべき姉だ。なんとかして、助けたい。

 毎朝のように玄関ホールを通る。朝はまだ受付嬢も出社前で、無人のカウンターがあるだけだ。その様子を見ると、侑は反射的に神川彩乃のことを思い浮かべる。白くきれいな透き通った肌をしていて、思わず頬に触れたくなる。少しつけた紅の赤がかわいい。茶色の濁りのない瞳がこっちを見ていると思うだけで、胸がいっぱいになった。
 実は入社したときからの片思いだから、もう8ヶ月ほどの想いだった。みごと玉砕したけれど、想いが簡単に消えることもなければ、痛みが引くこともない。同じ会社にいるかぎり、嫌でも思い出す。でも、それでいいのかもしれない、と侑は思った。僕は自由に恋愛ができる。撫由ちゃんは、それも許されないのだから……。
 ただ、これはどうなんだろう、と侑は内心困り果てていた。
 お昼、食堂では、侑の真横で彩乃が食事をする。3時の休憩時間、外のコンビニにフリスクを買いに行くと、彩乃が同じようにピンキーを触っている。夕方、1階の駐車場で立ち話をしていると、目の前を彩乃が何度も行ったり来たりしている。
 侑にも、それらは彩乃の彼の気を引く所作なのだとすぐにわかった。

 仕方がないので、駐車場から帰る時、営業課へ戻る前に受付に寄り、神川彩乃の前に立った。
「神川さん、何か用ですか?」
 彩乃は俯いて大きく首を横に振った。
「いいえっ」
 その反応に、侑は首をかしげた。しかし、そのまま何も言わずにエレベーターに乗った。
 職場に戻ると、同期の木邑がニヤニヤしながら、歩み寄ってきた。
「おい。お前らさぁ、どうなってんの?」
「え? お前ら?」
「フラレたんだろ? 神川に」
「ああ」
 侑は俯いて、自分の席につこうとした。そんな彼の行動を阻止して、木邑は侑をトイレ前に連れ出した。
「どうしたんだよ?」
 強引に廊下へと引き出された侑は、少し憮然として訊ねた。
「聞かれた」
 木邑は相変わらずニヤニヤしている。
「え?」
「聞かれたから、教えた」
「は?」
 侑にはさっぱり意味がわからなかった。
「アイドル神川彩乃が、お前のケータイのアドレスと番号を聞いていったんだよ」
「えぇっ?」
 侑は呆然として、木邑の顔を見ていた。
 彩乃には最初デートに誘ったときに、きっちり紙に書いて渡したはずだ。一度もメールも電話も来なかったけれど、どうして今頃また?
 侑はゆっくりと、エレベーターの前に向かって行った。
「おーい。いい感じなんじゃないの?」
 背中にかけられた木邑の声には、何も返す気にもなれず、黙ってエレベーターの前に立った。見ると11階を指していた。営業課のあるのは5階で、受付はもちろん1階。しばらく待っていたが荷物の搬入でもしているのだろうか、エレベーターが一向に動かなかった。侑は5階から1階まで階段を使うことに決めた。少し暗い階段の手すりを持って、駆け足で下っていくと、彼の足が自然に止まった。
 神川彩乃が上ってきたのだ。




 出版社から出てきた夏穂は、ふうと額の汗を拭いた。ビル内が暑かったこともあるが、慣れない場所のせいで、緊張したのだ。
 一体、誰のためにこんなことをやってるんだか。
 これで、幹原撫由がチューピーの矢内という男との縁談が破談になり、企業としての合併もなくなったとしても、私は知らない。撫由は撫由、企業は企業だ。そして、撫由と遥哉の件はもっと別問題だ。
 撫由を助けたとしても、遥哉とのことを許したわけじゃない。
 そう、豊里家は幹原家を恨んでる。二つの家族がぶつかり合って、幸福なことが生まれるはずがないんだから。単に、同級のよしみで、撫由を助けただけ、それだけなんだ。
 女性誌のヒゲボウボウのオヤジが、ニヤニヤして夏穂の話を聞いていた顔を思い出す。
「まぁ、裏をとってから、記事にまとめて、……出るのは早くて一月後だね」
「それじゃあ、年内の婚約は……」
「それに間に合わせるのは、無理だよ。要するに結婚しなきゃいいんだろう?」
「ええ、まあそうですけど」

 夏穂はバスを待って、タバコを一本吸った。ラッコの灰皿を思い浮かべ、笑みがこぼれた。
「あの灰皿の影響は大きいよ」
 夏穂は深々と吸った煙を吐き出して、そこらじゅうにいたバス待ちの客たちの顰蹙(ひんしゅく)を買いながら、まだ顔から微笑を消せずにいた。
「あの子みると、意地悪したくてしょうがなかったのにねぇ」




 撫由が遥哉と一緒に歩いて着いた場所は、全く知らない場所の、小さいアパートだった。海沿いの町で、時折潮風がやってくる。波の音も聞こえる。空が広くて、寒かった。
 撫由のも遥哉のも、携帯は電源を切っていた。山田からの連絡で鳴りっ放しだったからだ。
 撫由の浮かない顔は、山田を裏切ったせいだろう。
 そして、見知らぬ町の心細さだろう。
 将来が見えない、不安のせいだろう。
 遥哉はあえて明るい声で言った。
「友達の兄さんが使ってた部屋で、今出張中でね、貸してくれるっていうから。ちょっとだけ遊びに来たんだよ」
 遥哉の言葉とは裏腹に、その部屋は、中へ入ってみるとがらんどうだった。人が暮らした形跡がなかった。
 いくら世間知らずの撫由でも、これは言葉にウソがあるとわかった。
 じっと遥哉を見上げて、その、伏目がちな視線をしっかりと受け止めようと、撫由は彼の視界に入り込んだ。
「ここで、暮らすの?」
 撫由の声はゆっくりと落ち着いていた。
「いやだよな……」
 遥哉は目を閉じた。家族を裏切ることも、山田を裏切ることも、こんな狭い汚い部屋で暮らすことも、オレのようなロクデナシと付き合うことも、全部全部、撫由にとっては初めてのことなんだ。
 撫由は遥哉にそっと寄り添って、「ありがとう」と言った。
「ごめんな」
 遥哉はただ、謝るしかなかった。撫由を助けることはもう、こんなことしか思いつかなかったからだ。

 昼の仕事も夜の仕事も、電話で連絡を入れてしばらく休むと伝えた。
「遥哉さん。ソファを買お。ベッドを買お。テーブル、ガスコンロ、ライト、おふとん、それからクッションがほしいな。テレビ、コタツもいいな」
 撫由は遥哉の手をとってはしゃいでいた。
 遥哉は鼓動が強く鳴っているのを感じた。
 すごく、すごく……なんだろう、この感じ。
 遥哉は撫由と一緒に、手をつないで買い物に出かけた。少し離れた大型スーパーでたいていのものは揃う。おしゃれな物はないけれど、二人はあの何もない部屋を満たしていく物を選んでいるときだけは、全てを忘れて楽しんで買い物をした。
 あの何もない部屋は、今までの遥哉の心の中のようだ、と彼自身感じた。
 こうして、急にたくさんの物が置かれてゆく。
 犯人は撫由だ。彼女だけが、彼の心に荷物を詰め込んでゆけるのだ。そして、それを喜んで手伝っている遥哉自身がいた。

 わがままを言って運ばせた家具たちが、ダンボールからはみ出して部屋を汚した。
 もう、夜遅い。
 かろうじてベッドに布団を敷いて、そこに大の字になって遥哉は大声で言った。
「あー、すっげー、しあわせだぁ」
 撫由はニコニコして、その遥哉のそばで、彼の顔を見つめていた。
 ずっと、こうしていられればいいのに。そう言いかけて、撫由は言葉を飲み込んだ。
「私もしあわせだぁ」
 撫由はケラケラっと笑って、遥哉の隣でけのびのような姿勢でベッドに寝転んだ。
 窓に月が浮かんで見えた。暗い外の景色が映る。
「カーテン買うの忘れたね」
「ああ」
 遥哉は撫由の方を向き、
「月の光って結構まぶしいんだな。眠れる?」
「大丈夫だよ。いつも遥哉さんの顔が見れるから、安心できる」
 遥哉は撫由の髪を何度も撫で、子供が寝付くのを見守る親のように、撫由をただ、安心させてやりたいと思っていた。
「遥哉さん」
「なに?」
「手をつないで眠ろうよ」
「いいよ」
 寒い風が、時々窓を鳴らす。二人はそのたびに、ふかく布団にもぐりこんで、ぎゅっと手を握った。
 遥哉の心も、撫由の胸も、震えていた。
 寒さではなく、期待でもなく、孤独でもなく、不安でもなく、ただ虫が恋をして羽を震わせて啼くように、心を震わせていた。




 階下から上がってきた神川彩乃は、上段で立ち止まっている幹原侑を見つけて足を止めた。
 一瞬、二人は無言のままお互いを見詰めていた。
 しんとした社員用の階段は、他に誰もいない。二人きりだった。
 侑は、ちょうど良いと思った。
 僕に何か用があるんなら、今聞こう。そう思って、口を開きかけたとき、彩乃の方が先に言葉を発した。
「幹原くん、ごめんなさい」
「え?」
「今まで、いっぱい、いっぱい、失礼なこと言ったり、したりして。それなのに一言も謝らなかったわ」
「いや……」
 侑はびっくりして、息を呑んだ。たった今、会ったばかり、言葉を発したばかりだというのに、彩乃はポロポロと涙をこぼしている。これは、女性の武器、演技なのか? そう疑ったが、どうやら違うように見えた。
「それに、すごく、よくしてもらったのに、ありがとうも言えなかった。お礼も言えない、非常識で嫌な女だって思ったよね?」
「そんなことは……」
「嫌な女なの。それ、セイカイなの。ごめんね、こんな女で期待はずれだったでしょ。私ね、今頃だけど、幹原くんのこと、人として好きになっちゃったみたいなの。どうしようもないってわかってるけど、一言伝えたかった」
 侑は頭が混乱していた。ガッカリされたのは、僕のほうだったよね、たしか?
「あ、あのさ。僕なんかのために、泣かなくていいよ。僕は、一度も神川さんのこと嫌いになったりしてないから」
 侑はそれだけ言うのが精一杯だった。
 何と言って、彼女が泣くのをやめさせたらいいのかわからない。
「ありがとう」
 そう言ってから、彩乃は格好もつけずに、わんわん泣いた。
 思わず、侑は彩乃の傍に近寄った、慰めるつもりでそっと肩に手を置いた。すると、彩乃の方から、侑の胸の中に飛び込んで来た。好きだった人に胸で泣かれ、背中に手を回さずにいる男はいない。おぼつかない手つきで、彩乃の背中を抱きしめると、彩乃がぎゅうっとしがみついてきた。階段の狭い段上で、抱き合っている姿は、あまり人に見られたくはなかった。
 しかし、具合の悪いことに、複数の人間が階段を使って上から降りてきたようだった。侑からは見えない。でも、彩乃はしがみついて離れない。無理やり引き離すこともできず、困っていると頭上で声がした。
「どうかしたのか?」
 言われて、初めて気付いたかのように、侑は顔を上に向けた。課長だった。しかも見知らぬ女性を連れている。多分来客だろう。酷い失態を見せてしまったと、彼は心の中で舌打ちした。
「いえ、彼女が気分が悪いらしいので」
「そうか? 医務室に連れて行ってやりなさい」
「はい」
 課長は事情を察している様子で、すぐに来客の方を見て雑談を始めた。
「しほ美さんはゴルフはお好きですか?」
「いえ、恥ずかしいんですが、全然できません」
 そ知らぬ顔をして侑の隣を降りてゆく課長のそばで、しほ美と呼ばれた女性は、じっと侑の顔を見ていた。
 侑もその女性の顔を見つめた。
 どこかで見たことがある人だった。しほ美? しほ美って、もしかして、安藤しほ美か?
 侑は徐々に脱力した。
 彼女は、課長の話にはあまり返事をせずに、階段で女性に抱きつかれている侑の困った顔を見ていた。まるで、何か伝えたいことでもあるかのように、その瞳は侑の瞳をまっすぐに見ていた。
 安藤しほ美は、長身の美人だった。そして、ここ、佐野物産の社長安藤宏茂の一人娘だった。
 侑とは初対面だった。なぜ、そんな顔で自分を見つめるのか、侑は不思議に思った。
 そのとき、侑の胸で泣き崩れていた彩乃が小さな声でつぶやいた。
「早退したいの。部屋まで送ってください」
 侑は仕方がなく、医務室に彼女を連れてゆき、外出の許可を得た。

 彩乃の部屋についたのは、4時半を回っていた。その時点で会社からは、直帰して良いという連絡が入った。
 カーテンも開けられていなかった。
 その薄暗い部屋は、彼女らしくなく、物が下に落ちていて、散らかっていた。ソファには脱ぎ散らかした服がかけてあり、侑は中に入るのを躊躇した。しかし、彩乃は彼の手を離そうとしなかった。
「汚れてるでしょ。片付ける元気がなくて」
「ずっと体調が悪かったの?」
 侑は部屋に上がったが、所在無く、立ったまま、彩乃の様子を見ていた。彩乃はすぐにベッドに倒れこんだ。
 侑はゆっくりと窓に向かい、カーテンを開けようとしたが、「開けないで」という彩乃の言葉に制され、窓の傍で立って、彩乃の方を見た。
「大丈夫?」
「大丈夫よ。どこも悪くないわ」
 侑は彩乃がまた声もなく泣き出したのに気付いて、ベッドのそばに寄った。
「神川さん?」
 彩乃は睫に涙をいっぱいためていた。きれいな朝露のような瞳で、侑を見つめる。
「お願いだから、帰らないで」
 侑はうつむいた。
「それも、計算なんだろう? どうやれば、こういう男が簡単に落ちるか、わかってやってるんだろう?」
 彩乃は瞼を閉じて、枕にボトボトと涙をこぼした。
 反論はしなかった。ただ、泣いていた。
「僕にだって、プライドはあるんだよ。何度も同じ人に遊ばれたくない」
 侑は彩乃に毛布をかけてやった。
「まだ、好きだよ。でも、神川さんの心変わりを信じられるほど、僕はお人よしじゃ……」
 毛布をかけてやった侑の手を、彩乃は力なく握った。熱く、弱弱しく、開いた唇からは僅かに嗚咽が漏れていた。
「美人が台無しだよ」
 侑はその手を振り解いて、部屋を出た。
 体が震えるのがわかった。エレベーターに乗っていても、心臓が鳴り止まなかった。こんなに人に冷たくしたことはない。僕は、遥哉と同じ人間なのかな。自分のために、人を傷つけても、平気なのかな。
 でも、好きだからこそ、もう二度と戻れない関係のような気がした。もう、これ以上失望され、嘲笑われるのは耐えられない。同僚や上司に対してではない。君に、神川さんに、これ以上情けない男だと思われたくないんだ。いつでも手玉に取れる、情けない男だとは……。

 マンションを出てから、彩乃のいる部屋の窓を見上げた。カーテンは閉まっている。
 すると、侑の携帯が震えた。メールだった。
<ごめんって謝っても、許してくれないの?
 お願いだから、そばにいて
 彩乃>
 侑は、彩乃から初めてもらったメールに、返すべきか、部屋に戻るべきか、迷い立ち尽くした。




 急に作田文緒に呼び出された姫野流詞は、また何か嫌な予感がして、うつむいていた。
 場所はよくある軽食屋さんで、仕事上がりの流詞は文緒に夕食をご馳走になった。
「遥哉、どうしてるの?」
 やっぱり、そのことか、と流詞は思った。
「休むらしいよ、一週間くらい」
「え? そうなの?」
「MOONは?」
「そっちも休むらしい」
 文緒はふうんと漏らして、遠くを見つめた。
 そして、そのまま視線を動かさずに、流詞に尋ねた。
「幹原撫由は、どうしてるか知ってる?」
「さぁ……」
「遥哉と一緒にいるに決まってるじゃない」
「あ、そうか……」
「なんとかしてよ、早く」
 無表情で文緒はつぶやいている。しかし、指先は微かに震え、苛つきを隠せない。
 流詞は飯がまずくなるなと思いながら、応えた。
「遥哉にはオレもムカツクことが多い。でもツレっていうか、憎しみまではもてない。それと、オレには、撫由ちゃんをどうこうするのは無理だ。せめて遥哉を説得する程度の量刑にしてくれないかな」
「だめよ」
 文緒はきっぱりと言った。
「あなたがしないなら、別の人に頼むわよ。誰にいくら払っても構わないんだし」
「え、ちょ、ちょっとまって。それじゃ、シャレになんない」
「すぐに居所を突き止めて、明日中に、幹原撫由を私の部屋にさらってきて。それができないなら、他の業者に頼むわ」
「業者って……」
 流詞は焦ってお茶をこぼした。彼がテーブルを拭いているうちに、文緒は姿を消した。

 流詞は携帯で遥哉を呼び出したが、電源が切られているようだった。
 店を出て、歩きながら携帯をぎゅっと握り締めた。
 舌打ちをしてから、流詩は知っている限りの遥哉の知人に電話をかけ続けた。
『ああ?』
「田中? オレ、姫野。遥哉のことで聞きたいことがあるんだ」
 何十回目かの電話で、流詞は田中という男に行き着いた。
「遥哉がいないんだけど、どこ行ったか知らね?」
『ああ、オレがアパートの保証人になってやったから、そこに引っ越したんじゃねーの?』
「アパート?」
『おう、遠いぜ。広くて安いとこ探したんだってさ。そりゃ、都心から離れるわ』
「そっか、そこの住所わかる?」
『ああ、一応、万一のことがあるから、控えてるよ』
「教えてくれるか? 明日中にあいつに会いたいんだ」
 もう、夜の闇が辺りを包んでいた。




 夜中、撫由はそっとベッドから降りて、コートを羽織り、裸足に靴を履くと、玄関の外へ出た。
 アパートの階段の下で、うずくまると、携帯を取り出した。
 電源を入れ、山田にかけた。
 ワンコールで、山田が出た。
「山田先生。ごめんなさい」
 撫由は、まっさきに謝った。謝らずには、眠ることもできなかった。
『どこにいるんですか? 無事ですか?』
「大丈夫。心配しないでください。とても、幸せなの」
 山田は低くうめいていた。
『とにかく、お父様に替わりますよ』
 胸がドキドキした。怒鳴られる、そう思うと怖くて電話を切ろうかと思った。
『撫由』
「ごめんなさい、お父様。あの、こんなことになって、お父様に迷惑をかけてしまって、でも、私は……」
『お前の言い分はどうでもいい。豊里の息子を出せ』
「だめ、嫌です。彼はもう寝てるわ。彼は悪くないんです。私を助けてくれただけで……」
『撫由を誘拐したんだからな。警察に通報してもいいんだぞ』
 父親の語気は荒く、全く許してくれそうな気配はなかった。
「そんな……。ただの私の家出です。もう、戻りませんから」
『なんだと? お前たち、それで済むと思ってるのか? いいか、お前が家に帰ってこないなら、豊里の息子を潰す。社会的に生きていけないようにしてやるぞ。わかってるのか? それにな、お前たちの居場所なんてすぐにわかるんだぞ。捕まえるのも時間の問題だからな』
「お父様……」
 耳に当てていた撫由の携帯が、不意に奪われた。
 驚いて顔を上げると、そこには遥哉が立っていた。手に取った携帯に向かって、遥哉ははっきりと言った。
「豊里遥哉です」
 撫由は遥哉の顔をじっと見つめていた。遥哉の表情は静かで変わらない。しかし、相当、撫由の父親に罵倒されているはずである。
「もうしわけありませんでした。でも、僕は撫由さんを助けたかったんです。お願いですから、矢内との縁談を解消してください」
 そう言った後、撫由の父親の猛反撃を聞かされていたのだろう、遥哉はしばらく、黙って携帯を耳に当てていた。
「すみません」
「すみません」
「すみません」
 何度となく、謝り続ける遥哉を前にして、撫由はたまらず、携帯を取り上げた。
「お父様、これ以上遥哉さんを傷つけるつもりなら、本当に私帰りません。死んだって帰らないから!」
 撫由は携帯を切った。
「撫由……?」
 撫由の怒っている様子を見て、遥哉は少し驚いていた。
「初めてお父様に反抗したわ」
 そう言ってから、遥哉にぎゅっと抱きついた。
 知らない土地の夜は、暗く、ざわざわとした波の音が耳に届いて、孤独感を煽られた。




 小さなベッドに横たわり、猫のようにひっついてくる彩乃をそっと撫でながら、侑は天井を眺めていた。
 確かに、小悪魔だ。離れることができない。
 そう思いつつも、自己嫌悪感はなく、妙な幸福感に満たされている。
 甘い、彼女の香りが、侑の脳を溶かしてゆくようだった。
 ベッドサイドの明りを消して、侑は布団を彼女の鼻先までかけてやった。
 柔らかな肌のぬくもりが、シルクの毛布よりもしっとりと、侑を包み込んだ。

 侑は目を閉じたが、なかなか眠りにつけなかった。
 明日、どんな顔をして会社に行けばいい? 僕らはどういう関係になるんだろう。寂しいときに甘えさせてくれる、そんな都合のいいオトコ、なのかな。
 会社といえば、課長にはどう説明しよう。社長のお嬢さんを連れていたときに、あんな場面に出くわすなんて、最低だったな。
 安藤しほ美さん。きれいな人だったな。なぜ、僕をあんな風に見ていたんだろう。
 初対面だったのにな。彼女に恋人はいるのかな。
 あ、いや、僕は何を考えてるんだろう。




 再び、部屋に戻ってきた撫由と遥哉は、ストーブをつけて温まった。
「バレないよ。ここがわかるわけない」
 遥哉はそう言った。しかし、その言葉に自信が無いのは、撫由にも感じられた。
「私が帰れば……」
 撫由はうつむいた。
「私が帰れば、なんだよ」
 遥哉が冷蔵庫から水を出して、飲みながら訊いた。
「今なら許してもらえるかな」
「許してもらう? それで、あの矢内と会うのか? そのうち婚約するのか? 別れるのか? オレたち……」
 撫由は何も言えなかった。

 遥哉はベッドに身体を横たえると、静かに撫由が傍に来るのを待っていた。
 撫由が、遥哉のとなりにそろそろと入り込むと、遥哉は待ち構えていたように、撫由を抱きしめた。
「なぁ、撫由」
 抱きしめたまま、遥哉はつぶやいた。
 撫由はかろうじて、顔を少し上げただけで、遥哉の表情は見えなかった。
「撫由……」
 はい、と小さく撫由は応えた。

「一緒に死のうか」

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