この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています
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| 「LONG ROAD」 (1) 繋いだ手が指先から離れて行く。 佐野 涼が、その俊足で急に走り始める。 無口な彼が、私にする、唯一の意地悪だった。 こんなにも空って大きかったのかなと思うくらいだ。 夕焼けのピンク色に染まる雲は、私が両の手を大きく広げたって、その端っこをつまむこともできない。 「走ってもいないのに、深呼吸?」 振り返った涼がにやっと笑う。確かに、私は両手を広げて空を仰いでいる。 「それとも、お祈りの時間?」 涼にしてはなかなか面白いことを言うんだな。 中学からまるで変わらない駅からの帰り道を、こんなにドキドキさせてくれる相手がいてよかった。 私はただ、本当にそう思っていただけなんだ。 涼は頭がいいから、春からはこの道を通ることは無い。 東京の大学へ行く。 私もある事情でこの道をもう通らない。 明日から。 明日から、私は父親と一緒に神戸へ行く。 短大もそっちで探す。まあ、なんとか入れる学校はあるでしょう、って向こうの担任が言った。 親一人、子一人だから、父の転勤についていくことは当たり前だった。 この6年間、転勤がなかったことの方が、不思議なくらいだ。 6年間過ごしたこの場所を、素敵な街だと思わせてくれた、佐野 涼に、感謝の言葉を述べる。 「好きだよー、涼。」 「どーも。」 涼は私に背を向けて、前を向いたまま、そう答えた。 「直(なお)、直…」 何度か呼ばれて私は振り返った。 小さな、本当に小さな子猫が、涼の腕の中に隠れていた。 掌に乗るくらいの黒い子猫は、まだ目が開いていなかった。 もう薄暗くなった公園で、いつまでも帰ろうとしない私たちに、仲間ができたようだ。 優しい秋の風にも、身体全体を震わせて、がくがくと壊れたおもちゃのように動く。 哀れな姿に、私は子猫の身体をタオルでくるみ、牛乳とガーゼのハンカチを買ってきた。 牛乳をガーゼに沁み込ませ、母猫の乳房のようにガーゼを尖らせて子猫の口元に持っていってやった。 涼の腕の中で、元気に吸っている。 「生きてるなあ。」 思わず私はそんな言葉を漏らした。 ベンチでひとしきり、牛乳を与えると、子猫は眠りについた。 「熱いよ。こいつ。」 涼が優しい声で言った。体温をじかに感じると命の強さも感じるんだろうな。 私は、子猫の身体を人差し指でさすってやった。 ガリガリの身体、マッチに毛が生えたようなシッポ、 寝ながらモミモミを繰り返す、愛らしい前足。 でも、お別れだ。 今夜出逢ったこの子とも、これが最後のひと時。 涼が私の肩に手を回し、頭どうしをゴツンと合わせた。 いたいって。 そんな言葉ももう出てこない。 どんな痛みだって幸福なんだ。 この瞬間だけ、この瞬間にここにいられることが幸福。 どちらからともなく、唇を寄せたが、ほんの数秒で終わった。 今はキスよりも、涼の顔を見ていたい。 きっと涼も、同じだったんだろう。 さよならがどうしても言えなかった。 息を潜めて、月を見ていた。 翌朝、引越屋のトラックが私の家の前に停まり、あわただしく玄関を人が行き来する。 放っておけずに、とうとう涼が内緒で家に持ち帰ったという黒猫は、スヤスヤ涼の腕の中で眠っている。 涼は、トラックの前でただ、その成り行きをじっと見つめていた。 私はなぜか、二階の私の部屋の窓から下を眺めていて、涼のそばに行けずにいた。 何も無くなった私の部屋に、私一人が取り残された。 最後に、私という荷物が神戸へ運ばれて、それでおしまいなんだ。 そんな風に考えていると、引越屋のトラックは準備を終えて、神戸へと出発した。 涼と近所の人たちを残して、消えてゆく大きな影。 私はゆっくり階下へと降り、挨拶をして回る父親の脇を通って涼のそばに寄った。 「大変だな、引越。」 「6年もいると荷物多くなっちゃって。」 私は少しうつむいてから、タイミングを見計らって、一枚の紙切れを差し出した。 「誕生日のプレゼントでも送ってね。期待して待ってるから。」 涼はそのメモを受け取ると、黙って頷いた。 沈黙が流れて、あまり表情を顔に出さない涼が珍しくこわばった顔をして言った。 「逢いに行ってもいいかな。」 私はその言葉を聞くと、うつむいたまま顔をあげることができなくなった。 「あー、じゃんじゃん来て。遠いけどねー。」 「じゃあ、本当に行くよ?」 私はその涼の泣きそうな顔を一瞬だけ見て、父の車に乗り込んだ。 「私」という最後の荷物。 置いていってくれてもいいのに。 「元気でね。」 「うん。おまえこそ。」 寂しさの中に、ほんのり残る優しい気持ちがあった。 また、会える。 きっと、また会えるはずだと。 毎日、何度も着信するメールは、あの無口な涼とは別人のような明るさだった。 その小さな事件の始まりは、春先に起こった。 『会えないのかな? いつまでも?』 寂しさが、そんなつまらないメールを私に送らせた。 『明日の夜、神戸に行く。会いたい。』 涼がくれたメッセージに、私はしばらく反応できずにいた。 だんだんと嬉しさがこみ上げてきて、にやにやしては、そのメールの内容をじっと見つめていた。 会える。何ヶ月か振りに会えるんだ。 その夜、大きな駅の脇で、ぽつんと立っている私たちがいた。 しっかりと手を繋ぎ、冷たい金網にもたれながら、白い息を弾ませて、私たちはただ笑っていた。 そばで顔を見ることができる喜びは、実際会ってみると、あっという間に現実の中に溶け込んでしまって、 まるで昔からこうしているかのような錯覚に陥るけど、でも、とても大切な瞬間だった。 数ヶ月会わないだけで、背が伸びたような気がする涼は、今日は少しだけ子供っぽい表情で私を見ていた。 ぎゅっと手を握る。 すると、涼の顔が優しくなる。 額を寄せると懐かしい涼の匂いがする。 涼の懐に入っていた黒猫がみゃーと顔を出した。 冷たいナイフのような風が私たちの頬をすべり打つ。 あの頃と、何も変わらなかったが、冷たい空気や黒猫の成長は時の長さを物語った。 そう、まだ、涼のことを何も聞いていなかった。 まだ、私は新しい土地での生活を何も語ってはいなかった。 それなのに、突然、二人の間は引き裂かれた。 男が二人、私を押しのけて、涼の前に立ちはだかった。 「佐野さん、ちょっと横浜の店に戻ってもらえますかね。」 「え?」 「警察なんですが。」 「佐野さんのバイト先の店ありますよね、あそこで盗難がありまして、売上の現金10万円ほどなんですけど、…ご存知無いですか?」 涼は驚いてその二人の男の顔をかわるがわる見ていた。 「知りませんよ。俺、関係ないです。」 「ま。とりあえず、戻ってもらえませんか。ここじゃなんですから。」 「いや、戻る必要ないっすよ。関係ないですから!」 「そうもいかないんですよ、目撃証言もあったのでね。」 私の目の前で、絶対に反抗させない威圧感を持った男たちが涼をしとめようとしていた。 いや、彼だけではない、ターゲットは私も同じだった。 「お嬢さん、お名前は?」 「はい?」 「調べればわかりますが、一応聞いておきたいのでね。」 「箕川(きかわ) 直ですけど何か。」 「佐野さんとは、どういうご関係ですか?」 涼が怒りに満ちた顔で何かを絶叫していたが、私は涼の無実を信じていたから、 淡々と質問に答えた。 私は参考人として、警察の事情聴取を受けることになり、横浜へ連れ帰られた涼とは別に、 地元の警察でボディチェックまでされた。 私にお金が渡っていないということがわかると、追求は緩んだ。 涼が金に困っていたという事実と、何に使ったかという事実の裏づけが欲しいらしかった。 私は涼を信じていたけれど、警察という非日常的な組織との係わり合いに、かなり疲れたのも事実だった。 涼はただ無実だけを訴えていたし、それは私も信じて疑わなかった。 しかし、彼とのメールは次第に少なくなり、電話も話す言葉を探すようになった。 そしてある日、涼の携帯電話は変わってしまい、もう連絡は取れなくなってしまっていた。 そうしてまた、6年の月日が経っていた。 私は塾の講師という職を得て、毎日を楽しく過ごしていた。 小学生くらいの子供が相手で、進学コースではない塾だった。 学校の授業の補習程度の内容でよかったので、私のように頭がそれほど良くない人間でも勤められた。 もう、社会人になってしまった私にとって、父親の転勤は自由への足かせではなくなり、1年前から一人暮らしを楽しんでいる。 父はまた、横浜の方へと戻って行った。 もう私は戻らない。 ここに一生住むだろう。 私は、駅前で外国人が道を聞いている姿を横目に、綺麗な花畑のレンガの坂道を登った。 シスターが募金活動をしている姿も、この街では様になる。 そして、美しいこの街には、時にホームレスや客引きまがいの人たちの姿も見かける。 その全て混ざった雰囲気が、私は好きだった。 同じ講師仲間の宇治田隼人(うじたはやと)とは気が合い、家も近いのでいつも行動を共にしていた。 私たちは午後3時ごろ、教室のある会場に出勤する。 明るい空の下、大人二人が、ふざけあって笑いながら、ラフな服装で坂道を登る。 上品な住宅街のそばを通り抜けると、垣根となっているきんもくせいが、オレンジ色の花を咲かせ、 甘い香りを辺り一面に漂わせていた。 私は、この香りが大好きだった。 中学校と高校がある駅の周囲の家の垣根も、きんもくせいだった。 この香りの中には、甘く切ない記憶が詰め込まれている。 レンガの石段に、私と隼人の影が落ちていたその時、前からボロボロの格好をした背の高い男がやってきた。 隼人は私の肩に手をやり、男から私を庇うかのような仕草で、身体を引き寄せた。 大丈夫なのに…。 私はそう思ったが、男らしさをアピールしたがる隼人の気持ちもわからなくは無いので、されるがままになっていた。 すれ違い様、私はその男の顔を見た。 青い顔をしていた。生気の無い目で、私を見ていた。 どこかで見たような気がして、私は足を止めた。 通り過ぎる男の後を、黒い猫が静かについてゆく。 それは、きんもくせいが見せた、記憶のかけらだったのだろうか。 私は鼓動が勝手に速くなってゆくのを、他人のような気持ちで確認していた。 「箕川さん?」 隼人が立ち止まった私を呼んだ。 すると、行き過ぎたはずの男も動きを止めた。 私は、一呼吸おいてから、言葉をかけた。 「涼?」 男はゆっくりと振り返った。 その男の目に、初めて小さな光が射すのが見えた。 「直…」 黒猫が甘い声でみゃーと鳴いた。 |
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