この作品の写真素材はおしゃれ探偵様よりお借りしています
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| 「水の空へ」 (1)湖底のマリア 遠く向こうに白い世界があった。私は深い青に包まれていて、それが心地よかった。 私の周りに、小さな魚たちが集まってきて、楽しそうに泳いでいる。 湖底に広がる建物のそばで、マリア様が優しげに微笑んでいる。 溶けてゆく。 体が小さくちぎれてゆく。 あっと言う間に、私は億万のあぶくとなって、白い世界へと立ち上ってゆく。 そこで、はっと目が覚めた。 辺りはまぶしいほどに朝の光があふれていた。 布団からはみ出した両腕で、精一杯の伸びをしてあくびをした。たたみに置かれた目覚まし時計を、その手で取り上げた。 「8時4分。」 私は正確に時計の針がさす時刻を読み上げた。 オーソドックスな形の赤い目覚まし時計が、私の目の前でコチコチ音を立てる。 「8時……?」 ガバッと体を起こして布団を跳ね飛ばした。 おかしい、たしかに7時に合わせたはずなのに、鳴らなかった!ちょっと待って、これ、壊れてるよ!おかしいよ、絶対、おかしい。こんなんで遅刻したって私の責任じゃないし〜。 頭の中で呪文のように「おかしい」を繰り返しながら、片手で洋服を掴み、片手でインスタントコーヒーを淹れ、片足で布団を丸めて隅に押しやり、私は普段は絶対できないような芸当をやってのけた。 だって、今朝は会議なんだもん。遅れられないの。遅刻したら課の全員から白い目で見られるじゃない。っていうか、そんなこと考えてる余裕もないの。 昨日から、どうも調子がおかしいな。 会社に着いたときには、時刻は9時2分だった。2分でも遅刻は遅刻である。始業時刻の15分も前から会議室で待っている、ウチの課の課長には言い訳は通じまい。 と、思ったら、なぜか遅れて会議室に入ってきた私に、課長が優しい声をかけてきた。 「セリ、大丈夫か?昨日のこと、聞いたぞ。」 「あ、はい。」 同じ課に、昨日一緒にとある場所へ行ったサコちゃんがいたことを忘れていた。サコちゃんが、こっちを見て心配そうに小さく手を振っていた。 「なんでまた真冬に水族館なんかに行ったんだ。」 課長が、珍しく上機嫌で絡んできた。別に水族館に季節は関係無いと思うけど。 「それは……私が一度も行ったことが無いって言ったんで……。」 私が恐る恐る課長の問いに答えると、課長は、 「初めて行って感動したのか?倒れたらしいな、エスカレーターで。」 と、事の顛末(てんまつ)を知っている様子だった。 「はい。頭の上を魚が泳いでるのを見てたら、なんか気持ち悪くなってきて……。」 「なんで気持ち悪くなるんだ?どうせまた、飲みすぎて、二日酔いだったんだろう。」 「違いますよ、課長と一緒にしないでください。」 「まぁ、また調子が悪くなったらいつでも言うように。」 ラッキーなことに、体調が悪いだろうとのことで、私の遅刻にお咎(とが)めはなしだった。 それは昨日の日曜日のこと。会社の同期の仲良しグループ5人で、水族館に行ったのはいいが、私は途中で倒れて一時意識を失ってしまった。 エスカレーターで海の中を潜(くぐ)り抜けていくような演出のトンネルのせいで、本当に海の中にいるような錯覚に陥った。それが不思議な衝撃となって、私の意識を吹っ飛ばしたという感じだった。 そういえば、山の中で育ったせいか、一度も海には行ったことが無い。水族館にいる間中、落ち着かなかった。 今思い出しても昨日のことは奇妙な体験だった。一体、なんだったんだろう。 白く輝く世界は、私の真上にある。キラキラと、水色の影と共に揺れている。 湖底の建物の中には、ソファがあり、テーブルがあり、窓があり、戸棚がある。誰かの部屋の中のようだ。 その壁には見たことのある人の写真が飾ってあった。 優しく微笑み、私をじっと見つめ返している。素敵な男性。私はこの人を愛している。 この人に会いたい。もう一度会いたい。 マリア様の微笑みは、私の心をゆっくりと静めてゆく。 また、私の体は溶け始めた。 そらへと上ってゆく。 幾億の空気の粒となり……。 あ、この夢……また、この夢だ……。 ゆっくりと瞳を開けると、天井の蛍光灯が見えた。部屋の中は明るい。朝だった。 私は夢の余韻に浸っていた。なぜか懐かしいような気がしていた。 ふと、枕元の目覚まし時計を取り上げると、その時刻に愕然とした。8時15分。これは間違いなく遅刻だ。また、この目覚まし時計は鳴らなかった。今日は木曜日。たしかこの間の会議のあった朝にも鳴らなかったはず。もう……絶対、壊れてる。今日は、新品を買ってくる! でも、昨日はちゃんと鳴ったのになぁ。鳴ったり鳴らなかったり、おかしな時計だな……。 今日の遅刻はもうどうしようもない。 私は半ば開き直って、会社に電話を入れた。 「寝坊したので30分ほど遅れます。」 正直に報告すると、電話に出た課長は早く来いとだけ言った。確か今日は臨時朝礼で本社から来た人の紹介があるはずだった。私ってば、どうしてこういう大事な日にばっかり遅刻するんだろうか。自分でもほとほと嫌になるなぁ……。 バスに揺られながら、私は今朝見た夢のことを思い出していた。 同じ夢を見るのは、何か理由があるんだろうか。なんだか、私には前世を示唆する夢のような気がしてならない。 私は、きっと人間に生まれる前は、魚だったに違いない。そんな気がする。 でも、私の見た夢が、前世の私だったとして、どうして、人間の写真を見ていとおしいと思うのだろう。 愛していると、夢の中で感じた。 それはきっと、人間の意識だ。ということは、やっぱり前世なんかには関係のない、ただの夢なのかな? 何度でも思い出せる。あの顔。 切れ長の目は優しく笑っていた。通った鼻筋、そして何かを話しかけてくれそうにうっすらと開いた唇。痩せすぎだと思える頬から顎にかけての輪郭と、目じりに入った深い皺と、浅黒い肌の色が、精悍(せいかん)な印象を与えていた。 誰なんだろう。湖の底に沈んだ家の持ち主なんだろうか。 会いたい。 会ってみたい。 私とその人の間に、どんな物語があったのだろう。 何の理由があって、二度も同じ夢を見るのか、その訳をしりたい。 そして、 それが、ただの夢ではなかったことが、その一時間後にわかってしまった。 会社に着いて、みながバタバタと忙しそうに動き回る広いオフィスに足を入れると、すぐさま課長からお呼びがかかった。 「セーリ。ちょっとこっち来い!」 今日こそ遅刻の大目玉を食らうんだ。 私はドキドキしながら、鞄を抱えたまま、課長のそばに小走りで近寄った。 「お前はいっつも大事なときに遅刻するなぁ。」 はい、すみません。重々承知です。 課長はでもいつもなら、席に仰(の)け反って、部下の顔を睨みつけながら説教をたれるのが、お決まりのスタイルなのだが、今日はなぜか私がそばに来ると、すぐに立ち上がった。そして、私の頭をポンポンと叩くのだ。 「……。」 私は、目をまあるくさせて、課長の顔を見ていた。 「もう、朝礼が終わっちまったけど、お前には紹介しとかないとな。」 ああ、新しく本社から来た人のことだな。 私は、課長が遠くのデスクに向かって手招きをするのを、ぼうっと見ていた。すると、課長のアクションに気づいて飛んでくる若い男性の姿を見つけた。 「本社から来たやつが、今日からうちの課に配属だ。お前とペアを組むんだぞ。」 「え? 私とペアですか?」 まだその男性がそばに来ないうちから、私は驚いて大声を出していた。 なぜなら、うちはアパレル関係の企業で、男性の社員は多くなく、女性が過半数を占めているからだ。当然、女性同士がペアで仕事をするんだとばかり思っていたのに、私は前のペアである女性営業社員からはずされてしまったのだ。 私の仕事にどっぷり関わってくるその男性社員を、じっくりと品定めするがごとくに、見つめた。 彼は、ようやく課長のそばにやってきたばかりだった。 グレーのスーツに細い体を包み、背の低い課長を見下ろすようにして立っている。ピシッと決まったスタイルに、私はうなりそうになった。 さすがアパレル会社、久々に若い男性社員を見たけれど、やっぱりオシャレだ。 茶色の軽くパーマがかかった髪に、黒いフチの細めの眼鏡が決まっている。はっきりと見開かれた瞳と、小さく引き締まった鼻から口元まで、どうみてもモデルタイプだった。 「柏原陸十(かしはら・りくと)君。えー、何年目だっけ?」 「3年目です。」 「あ、じゃあ、セリの方が先輩だな。」 私は顔を見られて、うろたえながらも 「瀬崎芹亜(せざき・せりあ)4年目です。」 と、頭を下げた。 「歳は……? 確か大卒で25か?」 「いや、まだ4です。」 柏原君の声は、すごく甘くて低くて、ちょっとうっとりする感じだった。 「セリも短大卒で4年目だから、24か?」 「あ、はい。」 「まぁ、歳は近いけど、実務ではセリがしっかりしてるから、柏原君に色々教えてやってくれ。頼んだぞ。」 「え、私がですか?」 「柏原君は本社ではバイヤーをやってたから、商品知識はあるが、今日から仕事は営業だから、得意先との関係なんかはセリがみっちり仕込んでやってくれ。」 私は驚いた。リードするのが私の方なんだ?困ったな。いままで女性の営業に頼りっきりだったのになぁ。 それに、こんなにかわいい男性社員とペアだなんて、ちょっと困ってしまう。 私だって、カレシ募集中の身の上なんだしぃ。 「よろしくお願いします。」 柏原君が甘い声でそう言った。 「こ、こちらこそ。」 私はうろたえている。すっごいかっこ悪い。 私のようなセールスレディ職(略してSL)というのは、百貨店や専門店のコーナーで商品を売る、いわゆる販売職だ。販売職のSLと営業職がコンビを組んで売り上げを伸ばすというのが、基本方針だ。 ウチの会社は女性が多いだけあって、女性のパワーが強い。人事にしても女性管理職は珍しくないし、平社員は殆どが女性だった。婦人服のメーカーだから、女性の意見がすべてを左右すると言っても過言じゃない。 男性社員は女性社員に気を遣う風潮が多々見受けられる。しかし、柏原君は3年もいるというのに、私とあまり目も合わさず、言葉少なで、女性をおだてあげるような見え透いた態度はなかった。要するに営業にありがちな、調子のいいタイプではなさそうだった。 「あっちで得意先ごとのプロモーションを詰めていきませんか?」 柏原君が言った。 「はい。」 学年にして1つ年上になるはずだけど、後輩は後輩。丁寧語で話す柏原君だった。つられて私も丁寧語。密室で二人きりになるってわかると、余計に言葉が出てこない。 「なんか、ヘンよね。」 私は、別室の小会議室でファイルを広げながら言った。 「え? なんですか?」 柏原君は眼鏡にかかった前髪を人差し指ですっと上げながら、上目遣いに私を見た。 「ペアで一緒にこれから頑張っていこうってことだから、こんな風にぎくしゃくしてるのもなんだし、呼び方もちょっと変えようよ。私はみんなからセリって呼ばれてるから、セリでいいよ。」 「え、そうですか? ……セリ……。わかりました。」 「柏原君はなんて呼んだらいいの?」 「本社では陸って呼ばれてました。」 陸か。……なんか恥ずかしいな。言いだしっぺは私なのに。 そのとき、彼が眼鏡をとって、デスクに置いた。目頭を押さえて、目の疲れを取ろうという感じだったのだろう。私は、そんな彼の顔を見て、言葉が出なくなった。 今まで眼鏡をかけていたから、分からなかったけれど、彼は、陸は、……。 夢の中に出てくる、あの愛しい写真の彼とそっくりだった。 こんなことってあるんだ。 どうしよう。 やっぱり、夢って何か暗示してるんだ。でなきゃ、こんなことがあるはずがない。 夢の中の私が、強い思いを抱いている写真の彼が、今目の前にいる。 おかげで、現実の私が、今、もうどっぷり、すっかり、一目ぼれしてる。 これじゃあ、まともに仕事やっていけるのかどうか、心配だ。 なにしろ、実社会で恋愛感情持ったの、2年ぶりくらい。 うろたえるよ、ほんと。 そんな私の気も知らないで、陸は照れながら言った。 「……セリ、はじめよっか。」 それだけで私は、顔が真っ赤になってしまった。 あの、湖底のマリア像のように、気持ちを静めてくれる微笑を求めて、私は顔をあげた。 でも、会議室には二人きり。 陸が再び眼鏡をかけて、微笑んでいるだけだった。 それでは気持ちが静まるどころか、ますます顔が火照る原因となっていた。 |
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