この作品の写真素材はおしゃれ探偵様よりお借りしています
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| 「水の空へ」 (2)片想いして 家に帰ってからも、目の前の陸のかわいい顔が消えない。もう、瞳は完全なハートの形をしている。 私はお風呂に入り、白い入浴剤の溶けた湯に顔を半分つけている。あー、冬はやっぱり入浴剤よね〜、じゃなくて、あー、なんで陸が私の仕事上のペアなんだろう。嬉しすぎて顔がにやけて仕事が手に付かないよ。 カルピスのようなお湯に、ぶくぶくと泡を吹く蟹のような私。自然と長風呂になってしまう。贅肉が取れますように。肌がピチピチになりますように。陸に好かれますように。 トントンと遠慮がちにお風呂のドアをたたく音がする。 「芹亜?」 いとこで、同居人のあっちゃん、徳田梓(とくだ・あずさ)の声がした。 「なぁに?あっちゃん」 彼女は二つ年上で、街に出てきてから私はずっとお世話になっている。もちろん、経済面ではきちんとしているつもりだけれど、生活面では姉妹のように甘えていることが多い。 「どうしたの?今日はお風呂長いね。倒れたんじゃないかと思って心配したよ。」 「あ〜、ごめん、お湯ためて入浴剤まで入れちゃった。」 「え?」 あっちゃんがお風呂場のドアを開けて、中を覗いた。そして、言葉をなくしたように私を見ていた。 「びっくりした。芹亜、お風呂に入れるんだ。冬でもシャワーしか浴びないじゃない。」 あっちゃんは浴槽の近くまで入ってきて、私の顔をじっと見つめた。 「そうだね、ほんと。今日は気分が良くて……。」 私は恥ずかしくて、また蟹になった。 しばらく無言で私の様子を見ていたあっちゃんは、ゆっくりと口を開いた。 「いいんだけどさ。お風呂に浸かると息苦しいから入れないって言ってたから、そうなのかと思って。……まぁ、冬はあったまった方がいいよね。」 あっちゃんは、それだけ言うと風呂場から出て行った。 なんだか理由はないけれど、お風呂に浸かっていたかったんだもん。あ、理由はあるかな。お風呂に浸かって少しでも痩せて、キレイになれたらいいなって。 それに今日はお風呂に浸かってても圧迫感は感じないし。 少しのぼせ気味にお風呂から出ると、すぐにパジャマに着替えた。まだ頭にタオルを巻きつけたまま、まるめた布団を伸ばして、その上に横たわり、私は歯磨きを始めた。 天井を見ながら歯ブラシをゴシゴシしていると、なぜか私がここにいる理由を思い出し始めた。 私には両親も姉妹もいない。私が小さい頃、家族は交通事故で亡くなり、私一人が助かったのだ。 昔いたおばあちゃんの家には日に焼けた両親の写真と小さい赤ちゃんの写真が、仏壇に飾ってあった。 それまで都会暮らしだったという私は、家族を亡くしてからしばらく父方のおばあちゃんと一緒に山の中で暮らした。 それから小学2年のときにおばあちゃんが亡くなり、私は父の妹であるおばさんの家にお世話になった。その家の一人娘があっちゃんで、私たちは姉妹のように育った。 あっちゃんが大学入試で狭い田舎暮らしから都会へ出ると、私も翌々年同じ大学の短大に入った。あっちゃんを追った形で、私たちは都会で二人きりの生活を始めた。そう、短大に入ってからだから、6年も前から二人ここに住んでいる。 そんな生活も、そろそろ終止符が打たれようとしている。 あっちゃんが結婚するのだ。 あっちゃんはここから出てゆく。今年の6月に。ジューンブライドとなって、幸せになるのだ。もう私の甘えをきいてくれるひとはいないんだな。 私も、はやく、特別の相手を見つけたい。 「早く髪の毛乾かさないと、風邪引くわよ。」 あっちゃんの声がした。 「うん。」 くちをもごもごさせて、私は洗面に向かった。 私が口をすすいでいると、あっちゃんが後ろから鏡の視界に入ってきて、こう言った。 「ねえ、芹亜、好きな人でもできた?」 「え、ど、ど、ど、どうして??」 あっちゃんはクスリと笑うと、かわいい垂れた瞳で私を見つめた。 「芹亜、分かりやすいんだぁ。」 あっちゃんは私よりも10センチくらい背が高くて細くて、とてもかわいらしい。当然、モテモテだった。 私なんか、こんな単純な片思いですら、2年ぶりだというのに、あっちゃんはいつも男性に囲まれていた。ちょっぴりうらやましいけれど、それ以上に私はあっちゃんの護衛的な位置づけだと思っていた。つまらない男が寄ってきたらぴしゃりと追い返す小姑なのだ。 でも結婚が決まって、私の大役もおしまい。後は自分のために人生を謳歌しなくっちゃ……。でも……。 ちょっと寂しい今日までの私。何人かカレシはいたけれど、なんかみんなパッとしないタイプだったなぁ〜。 「どんな人なの?」 「え?」 「芹亜が好きになった人よ。教えて。」 「えっと〜……。」 本社から来た、一つ年上の、柏原陸十。それくらいしか分からない。だって、一目ぼれに近いんだもん。夢で見た写真の彼だなんて、あっちゃんにも恥ずかしくて言えないから。 そういえば、あっちゃんがいない朝に限ってあの夢を見た。 あっちゃんは結婚相手の人の実家に遊びに行ったりして家を空けることがあるから、ちょうどそんな一人きりの朝にあの夢の残像に酔ってしまっていた。そして、遅刻して……。あー、新しい目覚まし時計買うの忘れたっ。 翌朝、私は無事あっちゃんに起こしてもらって、遅刻せずに会社に到着した。うちの課にはもう陸は来ていた。 「おはよう。」 陸が私にむかって微笑んで挨拶してきた。 それだけで、もう心臓が口から飛び出しそうだった。 「お、おはよ。」 この先が思いやられる。私はそう思っていた。 一週間たち、一月たつうちに、不思議なことにあの夢を、毎朝のように見るようになってしまった。 あっちゃんがいようがいまいが、関係なかった。 目覚ましは新しくしたけれど、7時に鳴り始める前に、すでに夢は終わっていてぼんやりと目覚める始末。 もう、あの写真の彼は、陸だとしか思えなくなっていた。陸への思いは夢を見るたびごと、当たり前のようにどんどん大きく募(つの)っていった。 陸は同年代の男子よりずっと無口で、私とはあまり会話が弾むことはなかったが、仕事となると別格に成績を残すタイプだった。 おかげで私の担当する地区は売り上げも順調に上がり、その要因である陸に対する、得意先の好感度は上がる一方だった。 加えてベビーフェイスのシャイな男子は得意先の女性従業員の憧れの的とまでになっていた。 これは大きな誤算だった。 陸の成績が上がる、そうすると必然的に私の成績も上がる、と、ここまではゆるせるものの、陸の人気が社内社外問わず沸騰するのは危機感を感じずにいられなかった。 でも、陸は私のカレシでもなんでもないのだから、私がとやかく言える立場ではないのだ。いや、それどころか、こんな私の立場でさえ、そのポジションを妬むやからが出てきた。 「いいよね〜、セリは。たいして仕事しなくても陸と組んでれば、成績上がるもんね。」 「陸、かっこいいしねぇ〜。うらやまし〜。」 「社内中の女子の羨望の的だよ。いいな、セリ。」 そんな風に直接私に言ってくるのはまだ仲のいい証拠なのだが、陰でコソコソ言われているのは、ちょっとつらいものがあった。 仕事ができない女、瀬崎。 そんなトイレの落書きも見た。 そんなあるとき、得意先から帰ってきた私のデスクの上に、「辞めれば?」と書かれたポストイットが貼られてあって、少なからず落ち込んだ。 「セリ?」 しゅーんとした私を見て、私と一緒に得意先から帰ってきた陸が声をかけてきた。 けれど、私はそれに気づかずに落ち込んでいた。 「あーあ、もう……。」 口から出るのはため息。目には涙がにじんできた。私だって、一生懸命やってるのに。別にズルして楽してるわけじゃないのに。 陸は、何も言わずに私のそばに来て、私の目線の先のポストイットに手を伸ばした。 「あ。」 私は驚いたのと恥ずかしいのとで、陸のするがままを見ていた。陸はそれをはがして丸め、黙ってくずかごに捨てて、自分のデスクに戻った。 そうだよね。そんなことで落ち込むことない。たいしたことないない。成績はあがってて、会社も認めてくれてるんだから。 陸の態度は、気にするなというメッセージに見えた。 でも、本当は。 本当は、ちょっと慰めて欲しかったかな。 陸とペアを組むようになって、一月半がすぎた。 私の片思いはずっと続いていた。 一つ先輩だから、態度は強気じゃないといけないんだけど、本当はリードできるほど気丈じゃなくて、陸の些細な態度で何度も傷ついたりしてきた。 無口な陸は、あまり他の女性同士のペアのように愚痴を言い合ったり労をねぎらったりするようなコミュニケーションを通わせることをしなかったからだ。 だから、周りから見られているほど、楽で甘い仕事、とは言えなかった。 陸に負けないように、陸の足を引っ張らないように、一人でこっそり努力してきたつもりだった。 少しでも陸に近づきたいな。それが本音だった。 私への辞めろ攻撃が、少し納まったかなと思った矢先、陸がまた異動となることが発表された。 うちの課は販売1課で、陸が3月から所属するのは販売4課だった。 課長は陸がいなくなることが戦力の大幅ダウンと思い、散々人事に文句を言った。しかし、それはもう決まったことなので、どうしようもなかった。確かに、たった二ヶ月程度でまた異動になるなんて珍しい。陸の異動は、4課の成績が悪すぎるためのてこ入れだと、もっぱらの噂だった。 私は、陸と一緒に仕事をすることがもうこれで終わりなんだと思うと胸が苦しくてたまらなくなった。 少しでも一緒にいたい。 私はその日から陸が異動になる日まで、意味もなくタイムカードを押した後も職場に残り、残業している陸の姿を見ていた。 もう、傍からどう思われたっていい。 私は陸のことが好きで、ただ一緒に仕事していたいだけ。それだけでよかったのに、もうそれすらもできなくなってしまうんだな。 なんだか、自分でも自分のことが惨めになってきた。 その日は、陸が1課のメンバーでいられる最後の金曜日だった。 私は仕事を終えてから、仲間うちでは一人だけ社に残って、パンフレットの整理やなんかをしながら、サービス残業していた。もちろん、陸が残業しているからだ。 陸が4課に移ってしまうと、フロアも変わり、その姿すらめったに見ることができなくなってしまう。 陸のそばに行く為に、何か用事がないかな。 そんなことを、いつも考えていた。 すると、パンフレットを整理し終えた私の背後から、声がした。 「セリ。」 振り返ると、陸がすでに鞄を持って帰る支度を済ませて立っていた。 「あ、陸。帰るの?」 「うん。」 なんだ、帰っちゃうのか。がっかりだな。これでおしまいだぁ。 そんな私の思いは、はっきりと顔に出ていたに違いない。多分、私が陸に気があることだって、社内の何人かは気づいているだろう。分かりやすい私のことだから。 「まだ帰らないの?」 陸が少し心配そうに尋ねてきた。 「ううん。もう帰るよ。」 精一杯の強がりで笑顔を見せて、気にしない風を装った。 「セリ。」 「ん?」 もうフロアには誰も残っていなかった。 私と、陸と二人きり。 「よかったら一緒に飲みにいかない?」 「え?」 ほんの、どこにでもある誘いの言葉が、私には愛の囁きに聞こえた。 めったに人と飲みに行かない陸が、誘ってくれるなんて光栄すぎる。 「う、うん。いいよ。」 いいよ。か。違うよ、ありがとう!だよ。誘ってくれてありがとうだよ。顔が赤い。嬉しすぎて、舌が回らない。ありがとうが言えないんだ。 「時間ある? よかった。」 優しいチャーミングな笑顔で陸はそう言った。 「もう、来週からオレ、4課の人間だから。」 何課でもいいじゃん。私ずっと待ってたんだから。プライベートで話ができる時間を。 「急ごう。駅に向かう最終バスが出るよ。」 私たちは、閉まったエレベーターを待つこともせず、階段を降り始めた。時刻は7時50分。 夢を見ているみたい。 あの、湖底のあぶくのように、甘美な夢。 溶けて消えても、今なら構わない。 |
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