good morning

この作品の写真素材はおしゃれ探偵様よりお借りしています


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「水の空へ」

(5)死との対面

「水に浸かることが、ものすごく怖いときがあるんだ。」
 私はそう告白した。

 結局、私と陸は、彼の家の近くのコンビニに一緒に戻っていた。
 実は陸は、今日、休日出勤して仕事の整理をしようとしていたらしく、駅前でバスを待っていたのだが、携帯で夢の話をしたことから、じゃあ、今日はもう少し一緒にいようということになった。

「リアルな感触の夢なんだな。」
 陸は、私の夢の話を聞いてから、そんな感想をもらした。
「きっと、水に関わる何かがあったんだと思うよ。」

 私もうすうす、そう気づいていた。プールは医者から止められていて、小さい頃から入った事がなかったし、無論、海にも行ったことがなかった。川でさえ、近づかなかった。ため池すらも。
 それなのに、潜ったことのない水の底の様子が、肌で感じられる夢を見続けてきた。それは、1月のあの日、友達と水族館に行ってからだ。
 初めての水にあふれた世界の体験で、恥ずかしくも失神して、忘れられない一日になった。

「それからね、ひとつだけまだ言ってないことがあるんだけど。」
 私は言いづらかったことを、ようやく言う決心をした。
 陸は不思議そうに、眼鏡の奥の黒い瞳を瞬かせた。
「夢の中に建物が出てきて、その建物には壁に写真が飾ってあって、その人が……陸にそっくりなの。」
「マジで?」
 陸はさすがにびっくりしたようで、コンビニのホットドリンクコーナーで、缶コーヒーを掴んだまま、硬直していた。
 それから、少し顔を赤らめて、無言で清算に向かった。


 私がカフェオレを差し出し、2本のドリンクをレジで支払いしている間、私たちは無言のままだった。
 陸はコンビニを出るまで、一言も話さなかった。

「あのさ。」
 やっと、口を開いた陸は、私の顔を見なかった。
 すぐ、アパートが見えた。陸の話を聞きながら、私たちはゆっくりと階段を上った。
「夢ってあやふやだから、いろんな情報が入り混じってると思うんだ。オレに似ている写真も、多分セリがオレと一緒に仕事をしてるせいだよ。オレがセリの夢を見るのもきっと同じ理由なんだと思う。」
 そうなのかな。でも……。
「陸に逢う前から、見てる夢だよ?」
「後から、オレと似ているって思い込んだだけだよ、きっと。」
 私は納得することができなかった。
 かといって、猛然と反論するほど、確信を持って陸とそっくりなんだと言い切ることもできなかった。

「所詮、夢じゃん。人間の意志とか記憶とか……そんなカケラで、脳が適当に作り出した映像かもしれないし。」
 陸は、そう言った。前を向いたままで、私を顧みることはなかった。

 私たちは、お互いがお互いの夢を見ていることに、違和感を覚えていた。
 私は、陸のことが好きだけど、もしかして、夢を見ていなかったら、そこまで陸に想いを募らせたかどうか分からない。私たちの関係に、夢は大きく作用している。
 それなのに、陸はそれを認めたくないんだ。昨夜は自分から夢の話をしてきたのに。
 今は、夢は夢なんだと自分に言い聞かせようとしている。

 陸はあくまで、お互いの映像の部分だけは、脳が作り出した記憶の断片のグラフィックだと思い込みたい様子だった。



「ね、じゃあさ、陸。」
 私は陸のスウェードのジャケットの袖をつまんで、振り向かせた。
 陸が私を見た。冬の湖のように、澄んだ瞳をしている。
「今から、一緒に水族館に行ってみてくれない?」
「え?」



 土曜日の水族館は、子供づれが多く、にぎやかだった。
 私が水を避けてきたことのヒントは、きっと夢にあるはず。
 水族館に来たことから始まった、私の夢だから、ここで何かがわかるかもしれない。

 そうだ、あっちゃんに昨夜以来連絡をとっていない。心配しているかな。
 私は水族館の入り口で、携帯電話を握り締めた。正直、中に入るのが、怖かった。あっちゃんのことを思い出したのも、立ちすくむような恐怖から救われたかったのかもしれない。

「誰に電話するの?」
 そんな私をみて、そばにいた陸が尋ねた。
「あっちゃん。一緒に住んでるの。」
「え?女性……?」
「じょ、女性に決まってるよ。姉妹みたいなものなの。ほら、私小さい頃家族を亡くしてて、いとこのあっちゃんちで、お世話になってて、今も一緒に生活してるんだ。お姉ちゃんよ、殆ど。」
「そうか。」
 陸はまた、顔を赤らめて、私の視線から逃れるようによそを向いた。
 本当に分かってないんだから。
 私は、陸のことだけが好きなのに、他の男性と同棲なんてしてるわけないじゃない。でも、確かに、好きだって伝えてないから、わからないのかな。
 私はそう考えると、少し寂しかった。
 そろそろわかってくれたって、いいころなのに。



『迎えに行くわ。』
 あっちゃんの声は興奮気味だった。
『どこの水族館なの?』
 お怒りモードのあっちゃんは、あまり見たことがない。いつも優しいあっちゃんなのに、私がこれから水族館に行くと言ったとたんに、言葉が険しくなった。
「大丈夫だよ。会社の人も一緒だし……。」
『前回、行って倒れたこと覚えてるでしょ! だめなのよ、芹亜はそういう場所は合ってないの!』
「でも……なんで倒れたのかよくわからないし……。単に体調が悪かっただけかもしれないでしょ?」
 私はとぼけて、そう言ってみた。
『絶対、ダメ!』
 あっちゃんはそう言って、何度も水族館の場所を聞きだそうとした。でも、私は陸との時間を邪魔をされたくなかったので、口にしなかった。そして、最終的に、居場所を告げずに電話を切ってしまった。
 これほどまでに、反対されるというか、連れ戻されそうになるとは思わなかった。
 そんなに、私が水族館に行ってはいけないのかな。

 私のやりとりを傍で聞いていた陸は、電話が終わったあと、私の肩をたたいて言った。
「大丈夫、1人じゃないんだから。何かあったら責任持つよ。」
 そう言ってから、すっと手を出した。
 その手をじっと見てから、私は顔を赤くしながらその手をとった。

 手をつないで、水族館へと入っていく。
 それは、何も知らない人がみれば、仲の良いカップルのデートだった。
 でも、実際は、お酒に酔ってなんとなく部屋に泊まっただけの、ただの同僚だ。水が怖い人間をサポートしてくれているだけなんだ。
 この手の暖かさは、単なる優しさなんだよね。

 でも、それでも、うれしい。
 知らずに笑みがこぼれる。
 怖かったはずの水族館も、ディズニーランドへ行くように、ときめく。


 入り口でチケットを買って、私たちは建物の中に入っていく。
 少し歩くと、大きな水槽と水槽の間を抜ける狭い通路に出る。水槽の中の照明で、ほんのり明るい館内。

 でも、もう、すでに私は気分が悪くなっていた。
「陸……。」
 私はつないだ手に力を入れた。
「ん? 大丈夫?」

 きれいな魚たちが、群れを成して大きな水槽の中を泳いでいる。銀色にきらめくうろこ。ゆらめく海草。岩肌をいろどるサンゴやいそぎんちゃく。
 私は熱帯の海のコーナーを横目に見ながら、ゆっくりと歩く。しかし足元はおぼつかない。

 なぜだかわからないけれど、肺を圧迫されるように、呼吸の乱れが出てきた。
 そして、とうとう、丸い水槽の中をくぐってゆく、私が倒れたエスカレーターが目の前に現れた。

 人はたくさんいる。
 ここは水の中じゃない。

 なだらかに繋がるステップに、足を乗せる。
 しずかな聞きなれたエスカレーターの機械音と、人々の声が耳に入る。
「セリ、平気?」
 陸が私の手をしっかりと握って、私の顔を覗き込んで言った。
 しかし、私の耳はどんどん聞こえなくなってきていた。
「陸……。私……。」
「どうした?」
 もう、自分の声もこもってしまう。目がかすんできた。
 頭の上に白い空が見えた。
 空だけがはっきりと見上げられる。





 助けて……。
 死にそう……。
 死んじゃうの? このまま、私、水の中で死ぬの……?

 周りは薄暗い青。遠い空にむかって、どんどん青が薄まって白くなっていくんだ。
 おねがい。あの空にもどして。
 空気を吸いたい。あの、まぶしい空にもどして。

 ああ、死ぬんだ。
 いくらお願いしても、助からないんだ。
 神様にお願いしても、私は死んでいくんだ。
 お父さん……。
 お母さん……。
 まりあ。まだ、1歳のまりあ……。

 助けて……。



 私は両肩を掴まれて、その強さに一瞬我に帰った。
「セリ、大丈夫か?」
「大丈夫なの? この人?」
「救急車呼びましょうか?」
「あ、いえ、どこかでちょっと休ませてから……」
 ざわざわと聞こえる多くの人の声の中で、陸の声だけが傍で聞こえる。



 気が付くと、私は館内のベンチに寝かされていて、上から心配そうに覗き込む陸の顔が一番に見えた。
「私……。」
 私は急にあふれ出す涙を止めることができなかった。
「どうした? セリ……?」
「陸、私……。」
 私は陸に抱きついていた。
「私死んだんだ。きっと海で死んでるよ……。お父さんもお母さんもまりあも……一緒に……。」
 泣きじゃくる私を、陸はずっと黙って抱きしめていてくれた。
 暖かい。

 とても、暖かい。
 陸。あなたがいてくれてよかった。

「怖いよ、陸……。」
「大丈夫、オレがいるから。セリは生きてるから。」

 陸は私をだきしめたまま、小さい子をあやすように、ゆっくりと左右にゆすった。
 陸、なんでそんなに優しいの?
 愛情と勘違いしてしまいそうだよ。
 ずっと、このままでいたいって思う。わがままだなぁ、私って……。

「セリ、……もしよかったら、同居してる人に電話してくれないかな。」
「え? どうして? 呼ぶの?」
「違うよ。ちょっと話がしたいだけだよ。」
「話? 何の話?」
 陸は私の問いかけには答えずに、黙ってしまった。
 私は、仕方なく携帯を取り出し、あっちゃんの携帯を呼び出した。そして、だまって、陸に渡した。
 ベンチの近くは水槽から離れた場所で、トイレや喫煙所などがあって、人がまばらに出入りするだけだった。
 陸はしゃがんで私の携帯を耳にあてて、静かな顔で相手が電話に出てくれるのを待っていた。

 私はなんとかベンチに起き上がり座って陸の様子を見ていた。
「あ、僕、芹亜さんと一緒に水族館に来ていた柏原というものですけど。……いえ、大丈夫です。いまちょっと具合悪かったんですけど、ちゃんと座ってますから。」
 陸は、ゆっくりと私の前で立ち上がると、低い声で尋ねた。
「芹亜さん、小さい頃にでも水の事故にあってませんか? ご存知ないですか?」
 陸はしばらく、あっちゃんと話をしていたが、急に不思議そうに声をだした。
「え? 柏原誠司ですが……?……もしもし?あの、……?」
 陸は、なおも不思議そうに答え続けた。
「ええ、確かに、そのとおりです……。北海道です……え?……本当なんですか?」
 それから、しばらく、陸はかすかにうなずいていた。

「いえ、とんでもないです。お話が聞けてよかったです。それでは失礼します。」
 そう言ってから陸は電話を切った。
 私は、少し緊張で顔を赤らめている陸に向かって、尋ねた。
「どうしたの?何の話してたの?」
「うん。」
 陸は一つ大きく深呼吸してから、しゃがみ、私と視線を合わせた。
「セリ、そろそろ家に帰る? それとも、もう少し僕に付き合ってくれる?」
 私はもちろん、後者を選んだ。
 陸は優しい笑顔で、私を見た。
「あのさ、ずっと言えなくて、どうしようかと思ってたんだけど、今なら言えそうだから、聞いてくれる?」
「うん。なに?」
「実はさ。昨日は誕生日でね。」
「うん、それは知ってる。」
 私は陸が立ち上がったので、一緒に立ち上がろうとして、ふらついた。
 陸が、私の身体をさっと支えてくれた。
「ありがと……。」
 私たちは、その場所に二人きりだった。
 支えてくれた陸の腕が、突然強く、私を抱きしめた。
「陸……」



 陸はゆっくりと両腕に力をこめた。
 ぎゅうううっと抱きしめられて、私は思わず顔を上げた。背の高い陸の頭を見上げると、陸も私を見下ろし、一瞬視線を合わせ、そしてまた前を向いた。

「誕生日に一緒にいたい人がいて、その人を家まで呼んで、好きだとも言えないで、抱いたんだけど……。今頃、好きだって言っても大丈夫かな。」

 陸の声が耳元でそう告げた。


 どうしたの。

 陸、どうしたの?急に。それ、私のことかな?

 私はまだふらついていて、頭がちゃんと回らなかった。
 陸はそっと腕の力を緩めると、私の顔を自分の真正面にもってきて、言った。



「初めて会った時から、好きだったんだ。」



 ほんと?
 どうして?そんな素振りなかったし……。

「セリは、オレのことなんかなんとも思ってないみたいだったから、ずっと言えなくて……。昨日誘ったのが精一杯だった。」

 なんとも思ってないですって? 一体どこに目をつけてるのよ。

「セリ、仕事一筋って感じだから、余計に一緒に仕事してる間は言えないって思ってて。」

 仕事一筋じゃなくて、陸一筋だったんだよ? なんでわかんないの?

 私は何も言うことができずに、ただ、陸の告白を心の中であれこれ言い返しながら聞き続けた。
 黙っている私に、陸は不安になったみたいで、きれいな黒い瞳がかすかに動いて、まぶたを閉じた。
「なんていっていいかわかんないけど、昨日は、……嬉しかった。一緒にいられて。オレの気持ち、重かったら、そう言って。無視してくれていいから。」

「陸……。」
 やっと声が出た。
 胸が少しずつ鈍い痛みで満たされてきて、じんじんしていた。

「わたし……。」
 昨夜の甘い思い出が、ひとつひとつよみがえってきた。
 陸が広げてくれる腕の中に、再び、あまえるように飛び込んで、きゅっと両腕を背中に回した。
 顔を胸にうずめて、陸の匂いをかいだ。



「わたしも好き……。」





 これは奇跡なんだ。
 好きな人に好きだと言ってもらえるなんて、奇跡だ。
 この奇跡が続くの? いつまでも続くの?


 もっと大きな奇跡が、私たちを取り囲んでいたとしても、今の私にはこの奇跡だけで十分な気がした。

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