この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています
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| 「最後のキス」 (1) 立ちくらみのような感触。 薄暗い靄(もや)に包まれていた。 一瞬の吐き気と軽い頭痛がして、遠くから聞こえる鐘の音やオルガンの音に耳をふさいだ。 ウルサイな。なに、これは…。 気付くと周囲は眩しいオレンジ色の世界。たくさんの人の拍手とはしゃいだ掛け声が響きわたる。 私は高いヒールを履いていて、危うく倒れそうになった所を傍にいる人が支えてくれた。 背の高い、見たことも無い男性が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。白いタキシードの胸には花が飾られていた。 「ありがとうございます…」 私は、無意識に礼を言った。 「え?」 驚いた顔の相手の男性は、おかしそうに吹き出した。 「上がることないって、リラックス、リラックス」 私は自分の身体がすごく窮屈で重たいことに気付いた。立つことが苦痛だった。 ドレスを着ている? ウェディングドレス? じゃあ、もしかして、この傍にいる人は、私の…? 「ちょっと待って…」 ため息のような小さな声しかでなかった。 目の前で、外人の神父がきょとんとして私たちを見ていた。 「大丈夫デスカ?」 神父は私の様子を気遣って声をかけてくれた。 「具合でも悪いの?」 タキシードの男性も、私の方を向き、左手で私の肩を触ろうとした。 私は思わず、その手を払いのけた。 「あなた誰?」 私のその言葉で、教会の中は凍りついたような静けさになった。 「誰のせいでもない、お前は気にするな。」 そんな風に優しい声をかけてくれたのは、父だった。 「そうよ、大丈夫よ。そのうち、記憶だって戻るわ。」 そんな風にのんきなことを言ったのは、母だった。 そうらしい。 どうやら私は結婚相手のことを、まるごとすべて記憶から飛ばしてしまったらしいのだ。 どうも事故の後遺症らしい。 家族が言うには、私は2年前、交通事故に遭ってPTSDだかなんだかわからないけれど、 口がきけなくなってしまい、心療内科に通っていたという。 そこで、出会ったのが、つい先日挙式しようとしていた男性、沼田航だった。 担当医として診てもらっているうちに、私が惚れまくったらしいのだ。 私と沼田とが並んで写っている写真が幾枚も、部屋に飾ってある。 騙されてるんじゃないの? 悪戯の仕掛け人がいるんじゃないの? そんな気さえするくらい、この写真の男性、沼田には全く見覚えが無い。 そう、教会でタキシードを着て隣に立っていた、ぼーっとした感じのうだつの上がらない男。 これで医者? まだまだ若造じゃん。大学出たてって感じ。 優しそうではあるけど、眼鏡なんかかけちゃって、背ばかり高くって、 だいたい私は面食いなのよ。ジャニーズ系なのよ。 こんなヤツに惚れるわけがない。 絶対友達と家族とがグルになって、私を嵌(は)めようとしているに違いない。 だってさ。 だって、沼田の事以外は、全部しっかりと覚えてるんだから。 あ、でも2年前の事故があったってことも知らなかった。私は丸々2年間の記憶をなくしたのだろうか。 それとも、その2年間というのが、私にとっては虚無だったのだろうか。 式を中断した日から数日たっていた。私は家にこもっているのも退屈になって、外へ出かけた。 本当は、花嫁の体調が悪くて式を延期したということになっているから、むやみに外へ出てはいけないのだけど。 外へ出ると、なんとなく心は晴れた。 少し家から離れた大きな公園を歩いた。木々が多く涼しい風が吹く。 池があり、虫や魚などが見え隠れする。ジョギングや、犬の散歩コースにもなっていて、人の姿が絶えない。 池のほとりを通ると、ちょうどあひるがのどかにえさを食べている所だった。 私は、そこの柵に体を預けて景色を楽しもうと思っていた。 しかし、先客がいた。 線の細い、若い男、しかも白衣姿。 平日の3時、こんなところで何をしてるんだろう。 そうか、午後診まで時間のある先生なんだ。 なるほど。 私は無視して彼の後ろを通り過ぎようとした。 すると、見抜かれていたらしく、声がした。 「しずく、…さん」 なによ、その微妙な「さん」のつけ方は。 「どなたでしたっけ?」 分かってはいるけれど、こうなったらいつまでも知らんぷりだ。 彼はようやく後ろを振り向いて、私の顔を見た。 薄いフレームの眼鏡から、知的な感じの目が覗いている。しかし、その目は少しオドオドした色を漂わせていた。 「いつもここで待ち合わせてたの、思い出してくれたんじゃ、なかったんだ…」 「待ち合わせ?」 なんとなく足が向いただけ。この場所が好きだっただけ。 それだけだよ。 「そうか…。」 沼田は、少しがっかりしたように俯いた。 「なんなのよ。」 私はため息をついた。 もう、ごめんだ。好きにもなれそうも無い男の相手をいつまでもし続けるなんて。 きっと惚れたのは向こうに違いない。私はもう、別の男性を探しますので、ご心配には及びませんよ。 「いや…。」 沼田は眼鏡を外して曇りをふき取りながら言った。 「記憶はいつか戻るって、信じてるから…。」 私はいぶかしげに彼の顔を見た。 「いつも僕が家に帰るなり、君が嬉しそうに出迎えてくれたこととか、いつもどこでも、手を繋いで歩いてたこととか…」 「な…」 言葉が出ない私に、彼はどんどん続ける。 「車は怖いからって、遠くまで自転車で二人乗りして、おしりが痛くなったりさ。 あと、カップルが乗ってるって知らずに、車のボンネットに砂で字を書いちゃって、かなり怒鳴られて半べそかいてたりさあ…。」 「妄想じゃないの?」 私はうんざりだった。 だって、ほんとうに、何一つ思い出せない。 いくらそんなふうに楽しそうに話されたって、私には何も感じないんだから。共感なんて、できないんだから。 私の言葉に些(いささ)かショックを受けたらしく、沼田は肩を落としていた。 「僕がさ、手相見るの上手いのも、覚えてない?」 手相? 私は首を横に振った。ちょっと占い好きの女には、無視できない一言だわ。 「手を見せてごらん。」 沼田は眼鏡をかけなおして、私に手を開くように促した。 私は手を差し出す。あ、なんで私、こんな見ず知らずの人に手相みてもらっているんだろう。 ま、街頭の手相見だと思えば良いか。 暖かい手で私の手を軽く包み、指で線をなぞる。 そして、にこっと笑って沼田は私を見た。 で? なんなのよ。 彼は笑うだけ。 騙された? 私はさっと手を引っ込めた。 「ごめんごめん。本当に得意なんだけどね。今、僕が言ったところで、2年も付き合ったあとじゃ意味が無い。過去なんていくらでも言い当てられる。」 「未来は?」 未来なら、たとえ2年付き合った人でも、わかるわけないわ。 「うん。見たよ。」 見たのなら、言いなさいよ。なんで、言わないのよ。 「言っていいの?」 「良いわよ。」 「近々、結婚しますよ。でも、旦那さんは短命ですね。子供ができるかできないかのうちに亡くなってしまう。」 え? 私は無言になった。 「でも、しずくは…いや、しずくさんは、大丈夫。長寿です。22世紀まで生きるのも夢じゃない。」 彼は面白そうに笑った。 それって、幸せなの? 私は彼の顔を黙って見つめるしかなかった。 そんな私の顔を見ながら、沼田はつぶやいた。 「話は変わるんだけどね。…どうしようか、困ってたんだ…。」 「なに?」 「“延期”のことなんだけど。」 ああ。確かに。そろそろ1週間になるかも。 あの日は式を途中で強制的に終わらせてしまった。披露宴に至っては最初からキャンセルしてしまった。 後日またあらためて、招待状を…みたいなことでうやむやになっている。 「僕としてはゆっくり考えてほしいんだけど。でも、しずくが、環境的に辛いんじゃないかって思って。」 ひょろっとした体で、うつむいて話す彼。なんとなく同情をさそう姿。 「それとね、言いにくいんだけど…」 「なに? どうせなら、何でもいいなさいよ。たいていのことには驚かないわ。」 「僕の部屋にある、しずくのもの…どうしようか…。一旦引き取る?」 「何があるの?」 「え、その、…食器とか、洗面具とか、服とか、下着とか、ぬいぐるみとか、バスタオルとか、通帳とか、…あと…」 「わ、わかったわ。とりあえず、お部屋に伺っていい?」 「どうぞ。君の名前も表札に出てるんだから。」 !! ど、同棲してたのか! どうりで、私の家に、落ち着けるスペースが無いと思った…。 早く言ってよ、お母さん!!! 彼がゆっくりと歩き出したとき、無意識にだろうか、さっと私の前に手を出した。 それは何? 手を繋ごうってことか? 私が彼の手をじっと見ていると、あわてて手を引っ込める。所在無い左手をブラブラさせて、彼は私の前を行く。 「マンションに行く前にさ、寄りたい場所があるんだけど。」 沼田が私に顔を半分向けて言った。 ああ、この人、横顔は結構かわいいかも。私はなぜか、そんなことに感心していた。 「行っていい?」 「ん? ああ、いいわよ。どこ?」 「そこの浅岡病院。…あ、わかんないよな。…由梨香ちゃんが入院してる病院だよ。」 「由梨香って、あの由梨香?」 「そうだよ、しずくの親友の由梨香ちゃん。」 「由梨香、病気なの?」 その問いには答えず、沼田は公園を出て、歩道橋をわたり始めた。 浅岡病院は、公園のそばの道路を挟んで向かい側にあった。 目の前には浅岡病院の入り口があった。 ずっと無言で歩いていた沼田だったが、ようやく足を止めて、私を振り返った。 眼鏡の奥の彼の瞳が、悲哀に満ちた色をしている。 なんて綺麗な色だろう。 その時、自分をまっすぐ見つめる眼差しに、私は見惚れていた。 「由梨香ちゃんはね、2年前しずくと一緒にドライブしていて、助手席に乗っていた。そのとき、山道で君はハンドルを切り損ねて谷に落ちた。おかげで、彼女は、…今、車椅子生活なんだよ。君はピンピンしてるけど、彼女は違うんだ。」 由梨香が車椅子? 私は胸の辺りに、つーっと氷の塊が落ちていくような感触を持った。 「何度目かの手術をして、また、入院生活を送ってる。」 私のせいで? 私が運転していたっていう、その事故のせいで? 心臓がドクドクと音を立てて呼吸を責めたてる。 呆然とした私の顔色を感じてか、沼田はとっさに私の右手をとった。 当たり前のように、優しく手を繋いで病院の中へと導く。 今度は、私にその手を振り払うだけの気力はなかった。 この人の手のぬくもりに、救われてさえいた。 |
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