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| 「最後のキス」 (2) その彼女は、私の記憶の中にある由梨香とは比べ物にならないほどに痩せこけていた。 背もたれのように起こされたベッドへと体を預けて、じっと人形のように私を見ていた。口元だけに笑みを浮かべて。 私は、それだけでもうだめだった。 ほろほろと涙が零れ落ちた。 まるで別人の彼女。 あんなに健康的で明るかった由梨香が、表情すら失くして私を見つめている。 沼田が彼女の傍に近寄ると、こう言った。 「今日はね、報告に来たんだよ。嬉しい報告だよ。」 「結婚したって言うんでしょ?」 能面のような白い顔で、由梨香は沼田を見ていた。 「いや、今日はね、しずくが事故する前のしずくに戻ったっていうことを、知らせに来たんだ。」 由梨香は驚いた顔のまま、私に視線を移す。 「事故する前のしずくに戻ったって、正気に戻ったってこと?」 私だってよくわからない。だって、事故した後の自分が、今の自分とどう違うかだって知らないんだし。 「事故したことは思い出したの?」 その由梨香の問いに、私は首を横に振った。 「ごめんね、由梨香…こんなことになってたなんて…。私のせいでこんな辛い生活させてしまって…。」 だって、私は由梨香と車でドライブしたまでは、記憶にあるのだ。 あの夏の日に山道を女二人でドライブ。情けないよねえ、なんて言いながら、でもドライブは私の趣味だったし…。 彼女を乗せて走ったまでは記憶があるけれど、そこから先の記憶が無い。 まるで、夢から覚めたように、途中で切れている。 そんな風に説明すると、由梨香は静かに息を吐いた。 「そうなんだ…。」 由梨香の表情は寂しさを増したようだった。思い出したくも無い事故の事を、また思い出させたからだろうか。 「でも、よかったじゃない。しずくは事故の後、それこそ人格が変わっちゃって、変におとなしかったし、元気がなかったわ。これで、元気になって、結婚もできて、もう何も不満は無いわね。」 その言い方には、やはり棘があった。 私は涙の跡を拭うと、沼田を見た。 彼は自嘲気味に笑った。 「いや…。それは、…結婚はね、…御破算になったんだ。」 「え?」 急に、そう急に、由梨香の顔が明るくパッと輝いたのを、私は見てしまった。 「しずくは、僕のことを…、全く覚えてないらしいんだ。」 沼田が淡々と言った。 私から告げるべき言葉が見つからない。 突然、由梨香が沼田に飲み物を買ってきて欲しいとねだった。 沼田は自販機を探しに病室を出て行った。1階まで行かないと自販機はなかったはずだ。 面倒見のいい人だなあと思っている私に、由梨香が手招きをして顔を寄せてきた。 さては、由梨香は、沼田が邪魔だったらしい。 「ねえ、しずく。」 「なに?」 「私のこと、かわいそうだと思うでしょう?」 私は口をつぐんだ。かわいそうだなんて、そんな言葉を人に向かって使っていいのだろうか。 「申し訳ないことをしてしまったと思ってるわ。」 「少し前のあなたは謝ったりしなかったわ。だって、事故の記憶もあいまいで、私のこともよく覚えてなかったし。」 由梨香の顔色は、さっき初めて見た時よりも、かなり血色を取り戻しているように思えた。 「だから、今は心の底からほっとしてるわ。たとえ事故の記憶は無いままでも、謝ってもらえたんだし。」 「本当に、ごめんなさい。」 「事故を起こした本人のあなたは、外傷はなかったけど、家族のことも親友のことも誰のことも分からないまま生活してた。だから、たった一人の理解者を恋人に持っても、おかしくないと思ったの。でも、その相手がお医者様なんだもの。…かなり嫉妬したわ。どうして、しずくと私の立場が逆じゃなかったのかなって。運命を恨んだわ。」 冗談のつもりなのか、由梨香は笑っていた。でも、もちろん私は笑えない。 「ごめんなさい…。」 「確かめたいことがあるの、しずく。」 「なに?」 「私たち、友達よね?」 「うん。もちろん。」 私は少し不安げに答えた。友達だと思っていて、いいのだろうか。あなたをそんな体にしてしまった張本人なのに。 「私、どうしても手に入れたいものがあるんだけど、譲ってくれる?」 「譲る? 何を?」 「沼田航よ。」 病院を出てから、先を歩く沼田は、何度も私を振り返った。 「ショックだった?」 「ん…? うん…まあね。」 何にショックだったんだろう。 私は自分のことながら、呆然としていて頭の中の整理ができないでいた。 由梨香の姿? 由梨香が沼田を譲ってくれと言ったこと? それとも、由梨香が沼田を好きでいながら、私たちが結婚するまでの様子を黙って見ていたという事実? 『結婚はやめたのよね? 沼田さんのこと、好きでもなんでもないのよね?』 そんな風に由梨香が念を押した。 うん。 そう答えた私は、なんとなく後味の悪いものを喉の奥に感じていた。 「ほら、マンションだよ。」 沼田の声がしたので、はっとして顔を上げた。 さすが医者だけあって、ゴージャスなマンションだった。ホテルのロビーのようなエントランスがガラス越しに見える。 沼田が慣れた手つきで暗証番号を打ち込む。カードを通す。 開いた扉の奥は、間接照明と観葉植物の静かな雰囲気。すぐにエレベーターがある。 私は、この雰囲気に何か懐かしさを感じていた。 におい。 そうにおいだ。 深いグリーンの絨毯から微かに漂う香り。洗剤系のにおいだろうか。 それを感じたあと、二人きりで乗り込むエレベーターの中でも、同様の懐かしさを感じた。 「ねえ。」 「ん?」 「私、ここにどれくらい住んでたの?」 「うーん…。1年弱くらいかなあ。」 「そう…。」 「なに? 全然思い出せない? 気にすることないよ。そういうもんだって思えばいいさ。」 いや、そうじゃないの。 なんとなく、感じてる。 部屋に着いて、沼田がキーを通した。 表札には名前が二つ並んでいた。 沼田 航。そして、元倉 しずく。 部屋に上がると、また懐かしさがこみ上げてきた。 それこそ、津波のようだった。 においは記憶とつながりがあるらしい。この部屋のにおいはもちろん、柔らかな色使い、ちょうどいい場所にあるソファ、全てに惹かれる。 そのベージュ色の革のソファにどうしても目が行く。座りたくなる衝動を抑えるのに必死だった。 そんな気持ちが、沼田にもはっきりと伝わったのだろう。 「座れよ。お前のお気に入りだったじゃん。」 明るい顔の沼田。砕けた口調にも違和感が無い。自分の部屋に入ったせいだろう。 沼田は、当たり前のようにアイスコーヒーを二つ持ってきて、ソファの前のテーブルに置く。 当たり前のように、そのグラスに手を伸ばしてから、私ははっとして沼田の顔をみた。 「い、いただきます…。」 沼田は爆笑していた。 「どうぞ。」 そして、 「隣に座ってもいいですか?」 と、沼田が聞いた。 「ど、どうぞ…。」 なんだ、これは。 まるで、お見合いの席みたいにカチンコチンじゃないか。 私は自分で自分がおかしかった。 心の一部はかなりリラックスしているのに、頭のどこかが拒否している。そんなアンバランスな心境だった。 私の隣に座って英文の雑誌にチラと目を通し、すぐに鞄にしまい込む沼田。腕時計を見ていた。 個人病院に勤めている沼田には、午後の診察がある。5時くらいからだろう。 今は4時半。そろそろ家を出る時間なのだろうか。 「しばらく、ここにいる? 荷物整理するとか…。多分、8時くらいには戻るけど。」 「うん。」 なぜか、心地よい。この場所から帰りたくない。 「そう、じゃあ。仕事に行くよ。鍵を一つ渡しておくね。」 「うん。」 実家よりも、ここのほうが数倍落ち着くの。そう言いたかったけれど、単に私は沼田を見つめただけだった。 「わかる…よね? 鍵のかけ方とか…。」 「なんとなく…。」 沼田は私に顔を少し近づけた。 「思い出して…来た…?」 そのあまりの真剣な眼差しに、私は思わず視線を移ろわせた。 沼田のにおいを感じるのだ。 さっきまで、確かに、さっきまでは全く感じなかったそのにおいが、今は強く感じられる。 もちろん、嫌なにおいじゃない。彼の独特のにおいだった。 懐かしく、甘く、切ない。 抱きつきたくなるような、そんな、沼田航のにおい。 「大丈夫よ。いってらっしゃい。ほら、遅刻してもしらないよ。」 私は夢想を振り切るようにして、ソファから立ち上がった。 夕方のピンク色の空が薄いレースのカーテン越しに見えた。 誰もいない部屋。 ここは沼田航の部屋。そして、私の部屋でもあったらしい。 女性物のグッズがいたるところにあるのだが、私自身、それが自分の物かどうか、判別できない。 この2年の間に購入した品物だとしたら、記憶になくても仕方が無い。 人の部屋をあちこち見て回るなんてこと、してもいいんだろうか。いや、これは私の部屋でもあるんだし。 私は躊躇しながらも、そっと扉を開けていった。 まるで高級ホテルのようなバスルーム。実家とは大違いだ。 思わず、私はシャワーを浴びたい衝動に駆られた。 バスタオルもきちんと傍に並んでいる。私はシャワーを浴びることにした。 いいじゃん。どうせ、一応、今はまだ私の部屋なんだし。 無理やり自分に言い聞かせて、欲求のままの行動に、理由をつけた。 バスタブの湯に体を沈めると、なんともいえない快感が襲ってきた。 究極のリラクゼーション? 最高だわ。 でも。 私、この人と別れるのよね。 記憶が戻らないと、この生活は手に入れられないわよね。 残念、最高の生活だったのになあ。こんな結婚二度とできないかもしれない…。 私はそんな風に考えてみた。 でも、違う。 本当は違った。 お金があれば同じ幸福感を味わえるような、代替のきくものじゃなかった。 たしかに、頭は忘れている。 彼のことも、2年間の生活も、感情のすべてをも。 でも、心や体は忘れていない。 この部屋にいることの安心感。満ち足りた幸せをどこからともなく感じる。 同じ生活がしたいのではなく、同じ安堵感を得たいのだ。 私は浴室から出て、寝室へと向かった。 バスタオルのにおい、シャンプーのにおい、石鹸のにおい。 そして、シーツのにおい、素足をかするじゅうたんの感触。 気が遠くなりそうなほど、いとおしい。 肌寒さを感じて、私は目を開けた。 薄暗い。 カーテンは閉じられているが、外はぼんやり明るい。 夕方? ああ、ベッドでうたたねをしちゃったんだな。 そう思って体を起こそうとして、シーツの下、自分が下着をつけていないことに気付いた。 「あ、お風呂から出たまんまだわ」 確か寝室まで服をもってきておいたはずなのに…。 「しずく。」 私は飛び上がらんばかりに驚いて、声のほうを振り返った。 ベッドの隣で、寝ているじゃないか。 沼田航が。 |
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