good morning

この作品の写真素材はあんずいろapricot×color様よりお借りしています


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「雨が降る前に」


「高間さーん」
 のんびりした声が、オフィスの端から聞こえてきた。高間ひさ美(たかまひさみ)は急いで営業課のデスクの島まで飛んでいった。
「はい、なんですか。加藤さん」
 ひさ美は息を切らしながら、加藤映詩(かとうえいじ)のそばに立った。
「この前、高間さんに作ってもらった請求書、まちがってました」
「えええ?? ほんとですか? すみません!」
「昨日、客先につき返されて、怒られちゃいました」
「す、すみません!!」
「どうしたら、間違えないように、できますか?」
「あ、そ、そうですねえ…」
 映詩は北海道の生まれで、天然かと思うくらいどんなときものんびりとした口調なのだが、言葉の中身は口調にそぐわず、かなりきつかったりする。
 今回も、ひさ美は恥ずかしくて真っ赤になった。彼が大声で罵倒するタイプなら、周りの同情をひくこともできるのだが、こう優しく穏やかに、しかし辛らつに追求されると、ただただ逃げ出したくなる。
「と、とにかく、すぐ作り直します!」
 踵を返して、駆け足でデスクに戻ろうとするひさ美に、映詩はまた声をかけた。
「あ、高間さーん」
「はい、なんでしょう、加藤さん」
「慌てなくていいですよ。間違えないようにしましょう!」
 ひさ美は返す言葉もなく、上目遣いで映詩を睨んだ。


 春が終わりを告げるとき、空はいつも悲しげな色をしていた。低く迫る雨雲が、遠くまで続いている。ひさ美はそれを見つめるとき、まだ知らない土地を思った。
 映詩の生まれた北海道って、どんなところなんだろう。

「教えてよお! 事前に! 現場で言わんといてよ!!」
 ひさ美がバンバンと夕食のテーブルを叩く姿を見て、映詩はくすくす笑っていた。
「いやあ」
 映詩は悪びれる様子もなく言った。
「仕事ですから。プライベートとは分けないと」
「うるさい!」
 ひさ美は、映詩の口の横の肉をつねってやろうと手を伸ばしたが、それは徒労に終わった。
 映詩は軽く避けて、笑っている。
「こわいこわい。大阪の人を怒らすと怖いから、この辺でやめときます」
「なんで、こんなに北海道人は余裕があんの!! むかつく〜!!」
「別の人種にしないで下さい」
「それはこっちの台詞やわ! 大阪はコワイコワイって、あんた今どこに住んでんのよ!」
「はい、確かに。すみません」
 その笑顔に、反省の色が伺えず、ひさ美は足をバタつかせた。
「子供みたいだな」
 そうつぶやいた映詩の目には、いつもよりも深い感情が溢れているように、ひさ美には見えた。それが愛情なんだと、そのときのひさ美は信じて疑わなかった。悪態をつきながら、そして平静を装いながら、小さな喜びをかみしめていた。
 なぜ、この人を好きになったんだろう。どうして私たちは今付き合っているんだろう。そんなことを、ふと、考えたりした。

 ひさ美の部屋にはあまり物が置かれていなかった。小さなワンルームだった。
「今夜は帰るん?」
「うん。着替えを持って来てないから」
 そう言ってから、映詩は少し伸びをした。
 シーリングライトのカバーがぼんやり白く浮かび上がっていた。
 明かりを消してからどのくらいたっただろうか。二人とも暗闇に目が慣れて、大抵のものは見えた。隣で横になっているお互いの顔も見える。ただ、表情まではわからない。
「北海道に行ったことある?」
「ないよ。行きたいなー」
「そうか」
 ひさ美は話に続きがあるのだと思って待っていたが、映詩はそれ以上何も言わなかった。
 大阪と北海道は遠いな、とひさ美は思った。そう思うと気持ちが沈んできた。まるで、今となりにいる映詩が架空の人物であるかのような錯覚にまで陥った。
 その横顔は、とてもきれいだったのに。


 ひさ美は仕事を定時きっかりで終えると、いつものように母の待つ家に向かった。
 父と母は離婚していて、母は一人暮らしだった。年老いてから出来た、たった一人の娘であるひさ美のことを、彼女は溺愛していた。母一人子一人という状況なのに、それでも、一緒に暮らさないのには訳があった。
 それは、一種の虐待行為と言えるだろう。
 母は過干渉という形でひさ美を押さえつけがんじがらめにして、独占した。ひさ美が小さい頃は、彼女が友達と遊ぶことすら許さなかったほどの異常な愛情がそこにはあった。母親の過度の依存により、ひさ美は心を患う少女期を過ごした。しかも、お互いにその病魔に気付かない。
 母は娘を独占できて当たり前だと思い込み、娘は母の際限の無い愛に応えようと必死になってもがいていた。

 ある日、母が倒れた。卒中だったが、軽かったためすぐに退院した。まだ中学生だったひさ美は、その時初めて自由を知った。
 安堵感を持った。

 ひさ美を独占しようとする母親の愛情は、その後も全く衰えない。年を取り、身体が思うままに動かせなくなると、余計に娘にわがままを言い、どちらが子供なのか分からなくなった。そこでひさ美は、自分で稼いだお金で別に部屋を借りた。その場所こそ、彼女が彼女として生きられる場所だったから。

 母親は最近痴呆に似たような言葉を発し始めた。今言ったばかりの事件を、また初めて話すかのように話し出す。名前を間違うことなんて日常茶飯事で、ひとり娘のひさ美のことでさえ、近所のネコの名前と言い間違う。そして間違いに気付かずに、話は進む。


「今日も疲れた…」
 ひさ美は自分の部屋に戻ってから、ほおおっと心の底からの安堵の息を漏らした。
 携帯を見ると、メール着信のランプが点滅していた。音を消していたつもりもないが、それすら気付けないくらいに、母とのやり取りに神経を遣っていた。
 
<雨が降るらしいぞ。気をつけて>
 ただそれだけの文が最初のメール。映詩からだ。
 そういえば、ぽつぽつと降って来ていたのをひさ美は思い出した。急いでベランダの洗濯物を取り込んだ。
 メールを続けて見る。
<今夜も逢いたいな。行っていい?>
<大好きだよ。逢いたい。早く仕事終われー>
ひさ美は顔を緩ませて映詩の独り言を読み続けた。
<さっき薮本がひさ美のこと話してた。どうしてかな、あいつ、ひさ美に気があるんじゃないかな>
 するとその時、携帯がメールの受信を始めた。
 新着メールも映詩からだった。
<雨が降り始めたら、行けそうに無いなあ…>
 ……?
 意味が分からない。


 結局その日、雨は本降りにはならなかったが、映詩は来なかった。
 映詩から連絡があったのは午後10時を回ってからだった。
『疲れたから、今日は自分の家に直帰します』
 映詩の普段より沈んだ声が、耳元でそう言った。ひさ美は、聞き違いじゃないかと、ぎゅっと携帯を耳に押し当てた。
『ひさ美さん、いいですか?』
 さっきまでのメールはなんだったんだろうと考えながら、ひさ美はいいよとしか言えなかった。映詩がひさ美のことをさん付けで呼ぶときは、まるで先生のような威圧感がある。たとえ優しい口調でも。
「ねえ」
 ひさ美はそのまま切りたくない一心で、話題を探した。
「私のこと好き?」
 なんてくだらない話題に辿り着いたんだろうと、ひさ美は自分でも呆れた。でも、そう、人間なんてどうせ、くだらないことばかりして生きてるんだし、と開き直った。社内恋愛をみんなに隠しているのだってその一つ。
 付き合い始めて、まだ二ヶ月。ひさ美には確信がなかった。
 言葉や、態度や、視線や、笑顔や、映詩の全てを見ているのに、果てしなく湧き上がる不安があった。愛されてるのかな。誰よりも大切だと思われているのかな。
 そんな不安に乱されるのは、きっと自分にはこの人が必要だから。
 だからこそ、くだらない質問をくりかえす。
『うん』
 映詩の声はやはりトーンが落ちていた。一瞬、軽蔑されたのかなという不安が、ひさ美の胸をよぎった。
『メールの通りだよ』
 少し安心はしたものの、のんびりした口調が、今はただ無愛想にしか聴こえないのは、勝手というものだろうか。
『明日は行けると思う。約束はできないけど』
 映詩は相変わらずの抑揚の無い声でそう言った。
「雨ってさ、どういう意味?」
 ひさ美は、そんな抑揚の無い声でもいいから、まだ聞いていたかった。切るタイミングを作らせないように言葉を繋いだ。
「雨が降ったら逢えないの?」
『うん? ああ』
 思い出したように、映詩は言った。
『もうすぐ、梅雨だね』
 ひさ美も、「梅雨だね」と返した。
 ひさ美は映詩の言葉の意味を推し測りかねていた。別人かと思うほど、高い壁が目の前にあるような気がした。
「また、明日。会社で」
 ひさ美はそう告げて、切る決意をした。でなければ、沈黙が流れてしまう。きっと疲れているせいだと思った。そう思うことで、この嫌な雰囲気を吹き飛ばそうとした。
 電話は切れたが、ひさ美の心にはもやのような霧のようなものがかかっていた。


 その翌々日のことだった。

「辞令? この時期に?」
 ひさ美は耳を疑った。
「らしいよ。なんでもそこの課長が急に亡くなってんて。ポストが空いちゃって仕事にならないんやって」
「ふうん…」
 ひさ美は平静を装った。
「それで加藤さんが、北海道支社へ転勤なんやぁ」
 今まで内緒で社内恋愛を続けていたくせに、こういうことになってしまうと、ひさ美は誰かに打ち明けたくなって仕様が無かった。
 そんなぁ。私たち、付き合ってるのに!
 大きな声で。
 でも、
「ちょうどいいやんね、加藤さんには。実家に帰れるんやし」
ひさ美の口を付いて出たのは、そういう仮面の言葉だった。
「そうやねー」
 ひさ美の同僚たちが頷く。


 映詩は無表情にコーヒーを飲むと、黙ったままのひさ美の視線の先を見つめた。マグカップが二つあるだけの、何もない小さなテーブルの上。
 ひさ美の視線はそのテーブルの木目を数えるかのように、ぼんやりと移ろいでいた。
 狭いはずのワンルームが、やけにひんやりしていて広い場所のような気がした。
「ごめんね。言えなくて」
 映詩が、その独特の穏やかな口調で言った。
「辞令の二日前に内示があって、その内示の1週間くらい前だったかな。本社の人と電話でやりとりしたときに、噂として耳には入って来てたんだけどね。でも噂は噂だし」
「うん」
 そして続く、音の無い時間がひさ美の胸を痛めた。
 映詩が何かをふりきるように呟いた。
「遠距離かあ」

 多分、そうはならない。


「でも、日本やし。きっと大丈夫なんとちがう? 生きてたら逢えるんやし」
 精一杯の強がりだなとひさ美は自分の言葉に感心した。
「そうだね」
 もっと時間を重ねた恋人同士だったなら、正々堂々と皆に認められていた恋人同士だったなら、何か違う結論があったのかな。
 ひさ美は自分の中の問いに、自分でノーの答えを出した。
 母のこともあり、ひさ美は大阪を離れられない。母一人を置いて行けない。大阪から出たことのない老いた母を、北海道へ連れて行くことも考えられない。
 今回の辞令を映詩が覚悟を決めて蹴ったとしても、答えは変わらない。
 映詩はいつか北海道へ戻るのだ。早いか遅いかの違いだけで。
 だからこそ、映詩も言えずに悩んでいたんだろう。


「北海道には、梅雨が無いんよね?」
「んまあ。大阪ほどじとじとした長雨にはならないよ」
 家にいるのが重苦しくなったひさ美は、映詩を誘って近くのコンビニまで歩いて買い物に出かけた。
「梅雨に遭う前に北海道に帰れそうだね。よかったね」
 映詩は何も答えなかった。
 ただ、ひさ美の細い指に絡めた彼の指には自然と力が入っていた。

 月は雲に隠れていた。
 今にも泣き出しそうな表情をしていた。





<END> 2007.7

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