| 「自動販売機」 (3) 白い雲が、ひときわくっきりと病室の窓に光る。動けない孝は、そのまばゆい白さに、目を細めて顔をそむけるしかなかった。 「ちょっと、どうしてそっち向くの?」 ベッドの左側に座っていた有紀子が孝のわき腹をつっついた。 いや、深い意味は無いんですが。孝はもう一度左側に顔を戻した。 「ちょっと、どうしてそっち向くわけ?」 ベッドの右側で、亜季が孝の腕をつねる。 いや、だから別に意味は無いんですってば。 「あの、さ…。おしっこしていいかな…。」 一人になりたくて、孝はナース山本が置いていったしびんを指差した。 「わかったわ。手伝ってあげる。」 有紀子の発言に孝と亜季はギョッとした。 「それくらい、ねえ、孝…。」 有紀子が色っぽい流し目で孝を見た。孝は今度こそ、意図的に顔をそむけた。するとそこには、般若の顔の亜季がいた。 「ちょっと、どういう関係なわけ…???」 恐ろしすぎて、また反対の方を向く。 「俺、自販機でコーヒー買ってくるよ。自販機あるかな。ちょっと遠いかも…。」 要平がそんなことを言って病室を出て行こうとする。 「要平、おい。自販機探さなくても、目の前に売店がある。すぐ買えるから。」 孝は必死である。このにらみ合う美人二人に挟まれては、息も出来ない。 頼むから、オレを一人にしないでくれ…。 「いや、俺、ダイドーじゃなきゃ、飲めないんだよね。コーヒー。」 「バカ、ダイドーの自販機探すつもりかよ!」 「ヤクルトの珈琲たいむでもいいけど…。あ、サンガリアでもいい」 「ジョージアかボスで我慢しろ!!」 シーツを握り締めて説得する孝の右腕に、ふと、熱いものが触れた。気付くと、亜季がうつむいていた。 触れたものは、亜季の涙だった。 「あ、亜季…。」 亜季はガタンと椅子から立ち上がり、赤い顔で孝を睨んだ。 「もう、いいよ。わかったよ。さよならっ!」 「え、ちょっと待って…!」 亜季は伝う涙を拭きもせず、バッグを掴み、カーテンをさっと開いて外へ出た。孝の声を背中で聞いているのは分かった。ためらいがちな歩調がいじらしかった。でも、孝は追いかけて亜季を捕まえることができない。 「待てよ、亜季!」 「また、来るかも…。でも、もしかしたら、もう来ないかも…。」 「亜季!」 孝は亜季に向かって掛ける言葉が無いことに気付いた。 何を言っても、無駄だった。ナースにうつつをぬかす孝。その上、元彼女の登場。これでは、許容範囲を軽く超えている。 亜季は振り向かずに行ってしまった。 亜季が出て行くと、有紀子の表情が変わった。 さっきまでの亜季との緊迫したムードから解放されたせいだろう。少し穏やかな顔つきになり、孝の顔を見つめていた。 「ごめんね、孝。」 いまさらだよ。そう言いたかった。でも、有紀子の顔を見ると、言えなかった。 「オレたち、別れたんじゃなかったっけ。」 「知らない。」 今度は有紀子が少し目を赤くして孝を睨んでいる。 「あのさ、孝。俺からも一言、言わせてくれるかな。」 要平が珍しく間に割って入ってきた。 「もしかして、誤解してるかもしれないからさ…。」 「誤解?」 孝は聞き返した。誤解も何もあるもんか。 「あの自販機から出てきた手紙のことなんだけどさ。」 「ああ。見事に騙してくれたよな。」 「そう怒んなよ。謝るから。」 要平は一つ大きなため息をついた。 「確かに、俺は有紀子に頼まれて細工をした。」 孝は有紀子を見つめた。有紀子は視線を落として黙っていた。 「有紀子はさ、最近孝が冷たいのは、他に好きな女がいるんじゃないかって、心配してたんだよ。」 孝は要平の説明を、大して興味もなく聞いていた。 「俺は探偵じゃないから、孝の後をついて回るわけにもいかねーじゃん。で、有紀子に、いつも束縛してばかりじゃなくて、逆に孝に少し冷たくしてみれば?ってアドバイスしたわけ。孝には、ちょっと刺激を与えておくから…って言ってな。」 「刺激?」 「そう、普通はあんなラブラブな手紙読んだら、彼女に優しくしなきゃって思うだろ?」 そんなこと、全く思わなかった男がここに一人。 「だからさ、確かに有紀子はお前を疑ったかもしれない。でも、それは、好きだったからなんだぞ?」 「で?」 孝は有紀子の顔を見て言った。 「オレ、もう彼女ができたんだけど。…どうすんの?」 有紀子は孝の意地悪な視線に、精一杯耐えていた。 「戻ってきて。」 孝が知っている、強気で可愛げの無い有紀子はどこにもいなかった。消えそうな声でつぶやいた後、有紀子は孝の指をそっと捕まえ、自分の指をからませた。 どうしろって言うんだよ。今頃になって、かわいらしさをアピールするなよ! オレはそういうのに、めちゃくちゃ弱いんだってば!!! 孝は消灯時間になっても、眠れずにいた。 相変わらずじんじんとしびれている右足だが、今はその痛みが気持ちを紛らわせるのにちょうどいい感じだ。 今さら、亜季を振って有紀子に戻れってか? いや、もしかしたら悩むまでもなく、亜季には振られているのかもしれないが。 携帯が無いのは痛い。 右足より痛い。 気持ちを確かめる術が無い。 老人のいびきが大きくなり、小さくなり、蛙の合唱のように聞こえだすころ、孝は、ようやくウツラウツラしはじめた。 すると、ききなれたサンダルの足音が聞こえた。一応、音を立てないように静かに歩いているらしいが、その音で孝には誰だか十分推測できた。 美夏さんだ。 孝は聞き耳を立てた。サンダルの音はどんどん近づく。孝の病室に入ってきて、そしてカーテンの向こう側で、ピタリと止まった。 孝はカーテンを凝視した。 月明かりでクリーム色のカーテンも青白く見える。 ひらり、とカーテンの下をくぐって、ナース山本が現れた。 孝は彼女が自分の枕元にやってくるのを、夢でもみているかのような気分で見つめた。薄明かりの下の彼女は、透けるような美しい肌をしていた。 まるで天女だ。 ナース山本は、目が合ったとたん、口に人差し指を当ていたずらっぽく微笑んだ。 なんだ? これから、何が始まるんだ!!! その小さな顔を孝の顔の傍にもってくると、息がかかるほど耳に唇を寄せてささやいた。 「誰にも内緒よ。いい?」 孝はうんうんと張子の虎のように、何度も頷いた。ナース山本は孝の右手をそっと掴んだ。そのひんやりした柔らかな掌に包まれて、孝の手は緊張で震えた。 「み、美夏さん…。」 思わず握り返す。 「し! だめよ。ここのおじいちゃんたちに見つかったら困るわ…」 いいじゃないですか! オレは何も迷ってませんよ!! 亜季よりも、有紀子よりも、誰よりも、あなたです!!! あなた以外の女なんて、生きている価値は、な…。 「はい、これ。」 ナース山本は孝の手に、硬くて冷たいものを握らせた。この感触は…? 孝は手に握らされたものを見て一気に目が覚めた。 携帯電話だった。 「彼女にメールくらい、したいでしょ?」 「え、あ…。」 孝は言葉が出なかった。 たった今、生きている価値が無いと言いそうになった相手に、なんとメールすれば良いのだろう。 「美夏さん…。」 孝は携帯を手から離すと、ナース山本の手をもう一度握った。 「どうしたの、孝くん…。」 ちょっと困惑する顔が、妙に艶っぽい。 「啓介さんのことは、もう忘れてる…?」 「ん?」 なぜ、そんなことを口走ったのか、孝にもよくわからなかった。 自分が今、握り締めている手が、あんな手紙の中の架空の人物のものでないことを、確かめたかったのかもしれない。 もっと強く、手を握る。 「今彼氏、いませんよね…? いないって言ってください…」 「孝くん…。」 上ずった声がたまらない。 「ね…。」 「美夏さん、オレ…やっぱり…。」 「どうして啓介のこと、知ってるの?」 「え?」 気付くと、ナース山本の顔には、不審そうな色が漂っていた。 「どこで知ったの?」 あの、自動販売機で、です。しかもコンドームの…。 「啓介から、聞いたとか?」 「いえ、いや、あの…。」 「隠すつもり?」 ナース山本の大きくて美しい目がみるみる細くなり、眉をひそめた陰険そうな表情を作り出した。 「そ、そんなんじゃ…。」 「いいわ。あいつを知ってるなら、伝えて。」 さっきまでの柔らかな声はどこへやら、ナース山本はこの部屋の老人たちも真っ青な低い声でつぶやく。 「今度会う日がきたら…。」 今度会う日がきたら…? 「外科病棟に入院させてあげるわ。私がつきっきりで看病してあげる。」 それは、一体どういう気持ちの表れ…? 「あの半端じゃない女好きを、絶対に女の下へ走れなくしてやるわ。」 「ちょうど、こんなふうにね…。」 孝の脚を指差す、ナース山本。その目が光っていた。 きゃあ…。 孝はナース山本がその場を去ってから、急いで携帯でメールした。 <怖え〜。女って、怖え〜。> 相手は要平である。 しばらくしてメールが返ってきた。 <今頃気付いたか。バカ。例のラブラブレターの啓介ってのは、実は俺の兄貴なんだけどね。あの手紙は、兄貴が彼女と距離を置きたくて、内緒で一人旅に出てる間に、あらゆる場所にばら撒かれたらしい。一体何通手書きしたんだ? それ考えただけでも、鳥肌が立つだろ? すげえ執念で行方を捜されたってさ。で、兄貴、いまだに雲隠れしてるぜ。女は怖いんだから。お前も用心しろよ。> 孝のその後の入院生活が、緊張の連続であったことは、言うまでも無い。 低く垂れ込めた空に、枯葉が舞う。 そこは商店街というほどの通りでもないが、風呂屋に来る人の足を誘うかのように、いくつかの店が並んでいた。 飲み屋、焼き鳥屋、パン屋、駄菓子屋、酒屋。どの店にも用事の無い孝だったが、通りの出口にある自動販売機にはいつもお世話になっていた。 そこには3つの自販機が並ぶ。 何処ででも見かけるジュースの自販機。 何処ででも見かけるタバコの自販機。 そして、あまり見かけない、小箱を売っている自販機。 目深にニット帽を被り、ジャケットの襟に顔を潜ませて、孝は自販機の前に立つ。こんなふうに、風が強くて、寒くてたまらない日にしか、小箱を買うチャンスは無い。 くちゃくちゃの千円札がウィーンというモーター音と共に自販機の中に吸い込まれる。 ウィーン。 戻ってきた。 孝は必死になって札をきれいに引き伸ばし、もう一度押し込む。 ウィーン。 一瞬の無音の後、目の前の自販機のボタンが一斉に真っ赤に点灯した。 なぜか、びっくりする。ジュースだと驚いたりはしないのだが。 いつものやつ…、と視線がその小箱に行った時、背後から声がした。 「孝?」 ギクリとして固まったまま振り返ると、そこには山本美夏が立っていた。 孝は凍ったように美夏を見つめていると、彼女は孝の背中にペタっと張り付いてきた。 「私のために買ってくれてるのよね?」 「も、もちろんだよ。」 美夏は孝の腕に自分の腕を絡ませて、柔らかな笑みを浮かべている。 なぜかはわからない。美しいものは恐ろしい、そして魅力的だ。その魅力に勝てずに、破滅を予感しながら、孝は今日も小箱を買う。 これも何かの縁、いや、運命だから。 END |
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