good morning




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「自動販売機」

(2)

 雲が青空に薄く広がっていた。
 そこは商店街というほどの通りでもないが、風呂屋に来る人の足を誘うかのように、いくつかの店が並んでいた。
 飲み屋、焼き鳥屋、パン屋、駄菓子屋、酒屋。どの店にも用事の無い孝だったが、通りの出口にある自動販売機にはいつもお世話になっていた。
 そこには3つの自販機が並ぶ。
 何処ででも見かけるジュースの自販機。
 何処ででも見かけるタバコの自販機。
 そして、あまり見かけない、小箱を売っている自販機。
 
 小箱の自販機にはもうお世話になるまいと決意した孝だったが、なんとなく前を通ると気になった。
 亜季にはまだ話せない。自販機から手紙が出てきたことを。
 
 初めてデートらしいデートをした日に分かったのは、亜季が例の手紙とは全く無関係だということだった。彼女は要平のことを知らなかったし、彼氏と付き合った期間も、ほんの2ヶ月程度だったらしい。あの手紙の中の、啓介と美夏のような、数々の思い出もなさそうだった。
 美夏のけなげさに惹かれて、一人、はしゃいでいた孝だったが、今となっては美夏なんてどうでもよかった。亜季に勝るものは無いと言える。それほどに亜季はかわいらしかった。見た目も性格も、孝好み。要するに、一つ年下の亜季に、孝はメロメロになってしまったのである。
 
 亜季と付き合いだして、3週間たったある日のことだった。
 次の日曜あたり、オレの部屋に来ないかな、などと、妄想を抱えながら自転車を走らせていた孝は、急に横道から出てきたバイクとすれ違い、よろけて自転車ごと道路端の自販機にぶつかってしまった。かすかに人の声が聞こえたが、彼の目の前はまっくらになっていて、何もかもがぼんやりとした闇に包まれていった。
 
 
 ひどい頭痛と、息苦しいにおいで孝は目覚めた。
 白い部屋。希釈された薬品のようなツンとしたにおい。カーテンで遮られた視界。重すぎる体。保健室? いや、病院だな、と孝は思った。
 体を起こそうとして、右足に激痛が走った。ベッドがきしむ音を聞いたのだろう、さっとカーテンが開いた。
「あら、動かないでね。」
 とても小柄で孝と年が変わらないんのではないかと思うほどに若いナースが顔を出した。すぐに孝は胸元の名札をチェックした。“山本”とあった。
 ナース山本はすっぴんの、清潔な笑顔で孝の足元のケットを剥いで見せた。
「ほらね、折れてるの。パックリ切れてるし。」
 赤紫に腫れた右足首から脛の広範囲。ぐるぐると巻かれた包帯は出血で染まっている。さらに、動かないように、添え木がしてあった。
「さっきお母さんが来て、手続きしてくださったから、30分後に手術ね。」
「ええ!」
「大丈夫よ。切れてるところ縫うだけだから、すぐ終わるわ。」
 孝は手術なんて生まれて初めてだった。内心、穏やかではいられない。
 ナース山本がカーテンの向こうへと消えて、部屋を出て行ったのを確認すると、孝は、ベッドの脇の小さなテーブルに無造作に置かれた、デイバックに手を伸ばした。激痛は伴うがそれどころではない。携帯を取り出すと、躊躇無く亜季に電話した。
「今、入院させられてる。これから手術だってさー。…うん、あの酒屋の角の交差点でバイクが…」
 そんな興奮気味の孝の声に、同室の患者たちが、集まってきた。老人が二人、孝のカーテンを開けて入って来た。
 驚いて目を見張る孝に、じいさんたちは微動だにしない表情で言った。
「女か。」
「携帯は隠しとけ。」
 日に焼けた黒い顔に、深いしわが刻まれた白髪の背の高い老人が、おもむろに孝の通話中の携帯を取り上げた。
「あ、何すんだよ…」
 取り返そうとする孝だったが、右足がじんじんして激痛が重くのしかかっている。老人以上に顔をしわだらけにして歪ませた。
 もう一人の老人は背が低かったが、でっぷり太っていて、孝の体をベッドへと押さえつけた。背の高い老人が、なぜか携帯を耳に当てている。
「おい、じいさん…。」
 孝は、老人の行動に面食らって、半ば呆然とその様子を見ていた。
「駅前のな、市役所の隣の病院だ。永田病院。見舞いに来てやんな。」
 それだけ言うと、背の高い老人は携帯を孝に返した。
『だ、誰、今の…。』
 亜季が不審そうに聞いてきた。無理も無い。
「んと、同室のじいさん…。」
 そう孝が答えたときだった。ナース山本が帰ってきた。
「ちょっと、孝くん。」
 
 孝くん。
 その響きに孝は不覚にも、うっとりしてしまった。電話中であることもすっかり忘れていた。
 ナース山本はお姉さんの微笑みで、孝の携帯を取り上げた。
「だめよ。携帯は。」
 老人たちのため息が聞こえた。
 ため息というよりは、温泉に入ったときに思わず漏れる、あのうめき声に近い。
「みなっちゃん、相変わらずシブチンじゃなあ。ええじゃないの、大した病人はいないんだから。」
 老人がそんな風に言ってくれたのに、孝はまだ、ナース山本のきれいな指が携帯を握っているのをぼんやり見つめていた。
 ふうん、みなっちゃんかあ…。あのじいさん、スケベそうだなあ。名前どうやって聞きだしたんだろう…。
 みなつ…。
 
「ダメよ。精密機器があるんだから。わかってね、孝くん。」
「あ、はい…。」
 みなつ…?
 
 ナース山本が携帯の電源を切ると、自分のポケットにしまって孝をチラっと見た。
 やっぱり、かわいい。
 デレデレと顔が崩れそうになるのを、孝は必死で耐えた。
 「これ預かってるわね。後でお母さんに返した方がいい?」
 母親に渡されてたまるか。
 「いえ、持っててください。」
 ぜひ、その携帯、ポケットに入れておいて、太ももの付け根辺りでゴロゴロさせておいて下さいませ。
 
 ナース山本がくるりと踵を返し、隣のカーテンを開けた。老人が大口を開けて寝ていた。とても病院とは思えないくらい、元気そうな顔色だ。この老人たちは絶対、仮病に違いない、と孝は確信した。
 ナース山本がなにやらその老患者の枕元を覗き込んで、どうもナースコール用の手元スイッチのようなものを探っているらしい。
 ああ、そんなにじいさんの胸元にもたれかかって…。
 そして孝の方にはピンク色の制服のすそから、白いタイツの脚が丸見えである。
 なんて無防備なふくらはぎ。
 そして、白いサンダルのかかとに目がいった孝は、思わず黒い文字で視線を止める。
 “山本美夏”
 氏名が書かれてあった。
 そうか、じいさんたちは、これを盗み見したな。ん? 美夏って、みなつと読むのか。
 オレはてっきり、あの自販機の手紙にかかれてあった彼女の名前“美夏”は、ミカと読んでいたけど…。
 
 ん?
 
 あの手紙の彼女、美夏。
 このナース、山本美夏。
 あの手紙の彼女、美夏。
 このナース、山本美夏。
 
 まさかなあ。
 でも、これも何かの縁…、出会いの一つ…。
 孝の思考がまた、本能に支配され始めたころ、孝の手術開始時刻がやってきた。
 
 
 翌朝、土曜日ということもあって、病室には孝と同室の患者の見舞い客が数人訪れていた。孝は、痛み止めを打ってもらったが、まったく楽にならずに、ベッドでうめいていた。
 体を動かせない上に、痛みがあるというのは、これほどまでに辛いのかと、改めて健康の大切さを思い知った。
 そんな初めての手術の後の、不愉快な朝に、亜季は見舞いにやってきた。
 同室の患者たちの好奇の目に晒されているとも知らず、亜季は神妙な顔つきで孝のベッドを覗いた。
「孝…。大丈夫?」
 布団からガバっと顔を出して、その声の主を確認すると、孝は情けない顔をして、痛みを訴えた。
「大丈夫なわけないよー。」
「まあ、そうだよね…。」
 亜季はその情けなさに、ちょっとひいていたが、それでもまだかなり同情してくれているようだった。孝は亜季の手をとって、ぎゅっと握り締めた。
「来てくれてありがとう。」
「うん。」
 少し亜季の顔色が明るくなった。
「あー、せっかく日曜には一緒にいられると思ったのに、ちくしょー。」
「しょうがないよ。明日も来るから。元気出して。」
 微笑む亜季はやはりかわいい。痛みも忘れる。
 どうでしょう、このベッドに入りませんか? 動けないので、大したお構いはできませんが…。
「なに考えてるの?」
「え?」
「目がいやらしい。」
「そんな、まさか。かわいいなあって思ってるだけで…。」
 孝がそういうと、亜季はすぐ恥ずかしげに視線をそらした。
 そのとき、ナース山本の高い声が聞こえてきた。
「孝くーん。」
「あ、はい…」
 ナース山本は亜季の存在に、全く気付かないかのように、孝だけを見て話を始める。
「食事どう? ちゃんと食べた?」
「はい。」
「朝計ってもらった体温なんだけどね…。37度でしょ?」
「はい…」
 ナース山本は孝の額に優しく手をあて、熱を確認していた。
「ちょっとあるのよね…。」
 ナース山本の小さな掌が、ひんやりして気持ち良い。
 なんとなく、孝の額はナース山本の掌に吸いつけられるような気がした。このまま、ナースの腕の中へ…。
「孝…」
「え?」
 孝ははっとして目を開けた。
「もう、行っちゃったわよ、ナース。いつまでうっとりしてるのよ。」
「え。う、うっとりって…。」
 さっきまでのかわいい笑顔はどこへやら、亜季は完全にしらけた表情をしている。
「かわいいわね、あのナース。」
「いや、亜季ほどじゃないって…。」
 孝は、言っている自分の言葉が、やけにウソっぽく聞こえた。
「うそ、うそばっかり。」
 亜季も、さすがに疑いの目つきである。
「いやあ…」
 孝がフォローしようと言葉を選んでいると、また孝のベッドに来客があった。今度は二人連れ。
 
 要平と有紀子だった。
 うーん、最悪…。何しに来たんだ、てめえら。
 
「孝、大丈夫!?」
 有紀子は顔を紅潮させて、亜季を押しのけ、孝に向かって直進してきた。
 孝の体をしっかり抱き寄せる有紀子のおかげで、孝の体には声も出ないほどの激痛が走り、まるきり抵抗できないでいた。
「お前が事故にあったって連絡が、昨日の夜に回って来たから、びっくりしてさ。」
 要平が言った。
「事故っていうか、自分で自販機に突撃しただけです。」
 そう答えたのは、能面のような顔の亜季だった。
「あ、そ、そう言われればそうかな。ちょっと違う気もするけど…」
 孝はそう言って、必死で有紀子を引き離そうとしながら亜季を見たが、亜季はもう孝を睨みつけるばかりだった。
「あ、孝くん?」
 氷のような沈黙を破って、またナース山本が顔を出した。
「おしっことろうか?」
 ナース山本の手にはしびんが握られていた。
 
「ええのお、きれいなおねえちゃんがいっぱいで。」
 となりの血色のいい老人が、孝の顔を見てポツリと言った。
 
 そうしてまた、更なる沈黙が訪れたのだった。







 3 に続く

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